日野草城
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日野草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は日本の俳人。本名は日野克修(よしのぶ)。
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[編集] 略歴
京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。
1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。
1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。
戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。
1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。
[編集] 評価
モダニズム俳句の嚆矢(こうし)とされる。新興俳句の一翼をになった。「俳句を変えた男」(復本一郎)と高く評価されるが、風俗俳句のはしりとみる向きもある。
晩年は病床にあって「深沈とした秀句」を残したが、石田波郷の高い文学性にはおよばない。「前半(のモダニズム)とは別種の静謐(せいひつ)な句境を開拓するにいたった」(復本一郎『現代俳句大事典』)。
[編集] 作品
[編集] 句集
- 草城句集「花氷」(1927年)
- 青芝(1932年)
- 昨日の花(1935年)
- 轉轍手(1938年)
- 旦暮(1949年)
- 即離集
- 人生の午後(1953年)
- 銀(1956年)
- など
[編集] 著書
- 新航路
- 展望車