山口尚芳
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山口 尚芳(やまぐち ますか/なおよし、天保10年5月11日(1839年6月21日) - 明治27年(1894年)6月12日)は、明治時代の官僚、政治家、もと佐賀藩士。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)。
幼少のころから将来性を見込まれ、佐賀藩主・鍋島閑叟(直正)の命により、他の佐賀藩子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や蘭学を学んだ。また、同藩の大隈重信・副島種臣らとともに、当時ちょうど来日していたフルベッキに英語を学んでいる。帰藩後は、翻訳方兼練兵掛として勤務する。幕末の政治状況の中で、薩摩藩や長州藩の武士と交流、また岩倉具視ら公家にも接近し、王政復古後は東征軍に従軍。
明治新政府においては、当初は外国事務局御用掛に任命され、さらに東京府判事、大阪府通商司知事。また大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、大蔵大丞兼民部大丞となり、のち外務少輔に転じた。明治4年(1871年)、米欧の視察および条約改正の下準備として岩倉を全権大使とした岩倉遣欧使節が派遣されるにおよび、団員となり、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文とならぶ副使に任命されて、各国を歴訪した。
帰国後に起きた征韓論争においては、大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。明治7年(1874年)に江藤新平らが起こした佐賀の乱においては、政府軍の側に立って鎮圧に尽力し、故郷・武雄町の士族を説諭し、反乱への呼応を抑止した。翌年4月、元老院議官。明治13年(1880年)には元老院幹事。翌年、会計検査院が設置されるにおよんで、初代院長に就任した。明治23年(1890年)9月、貴族院議員に勅撰される。
明治27年6月12日、死去。勲一等瑞宝章を受章。