山下奉文
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山下 奉文 | |
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1885年11月8日 - 1946年2月23日 | |
渾名 | マレーの虎 |
生誕 | 高知県 |
忠誠 | 大日本帝国陸軍 |
階級 | 陸軍大将 |
指揮 | 第25軍司令官 |
戦闘 | シンガポール攻略戦 フィリピン戦役 |
賞罰 | 勲一等功三級 死刑 (マニラ軍事裁判) |
山下 奉文(やました ともゆき、1885年11月8日 - 1946年2月23日)は、日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将である。官位は陸軍大将従三位勲一等功三級。
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[編集] 経歴
高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。高知・海南中学校、広島陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍大学校卒業後、スイス、ドイツに留学し、帰国後、陸軍省軍事課長、軍事調査部長等を歴任した。二・二六事件では皇道派の幹部として決起部隊に理解を示した。昭和14年9月23日に大阪第4師団長となる。
[編集] マレーの虎
太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本のマスコミからは「マレーの虎」と呼ばれた。シンガポールの戦いの終結時に、ブキテマ高地にあるフォード自動車工場にてイギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に「イエスかノーか」と迫ったことで有名であるが、実際は「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という趣旨を拙劣な通訳に対して苛立って放った言葉であり、これが新聞等で脚色されたというのが真相である。話が一人歩きしていることに対し山下本人は気にしていたようで「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と、否定したという。この会見の様子(「イエスかノーか」で迫る山下)はシンガポールの蝋人形館に展示してある。
[編集] フィリピン防衛戦
シンガポール攻略という大きな戦績をあげた山下だったが、東条英機から嫌われたために満州に左遷され、その後は大きな作戦を任される事はなかった。後に敗色が濃厚となった1944年に第14方面軍司令官としてフィリピン戦局を指揮する事になり、ダグラス・マッカーサーらの指揮する連合軍に勇戦するが、台湾沖航空戦での戦果の誤報に基づいて立案されたレイテ決戦を強いられた。飛来する敵航空機がまったく減らないことから山下は大本営発表を誤報と考えこの作戦に反対した。このとき山下の部下には「マッカーサー参謀」とあだ名された名参謀堀栄三中佐がおり、あらゆる困難を排して状況把握に成功している。捕らえられた米軍パイロットの尋問からもそれは裏付けられたが、南方軍総司令官寺内寿一は命令を変えなかった。海上を移動中に輸送船の大半が撃沈され、レイテ決戦においては多くの兵力が海没した。つづくルソン島決戦では、ルバング島の小野田寛郎少尉からの「敵艦見ゆ」との報告で、迅速な部隊配置に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され完敗してしまった。1945年9月3日フィリピンのバギオにて降伏する。
[編集] 軍事裁判
降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてアメリカの植民地のフィリピン・マニラにて軍事裁判にかけられた。マニラでの住民虐殺等の責任を問われ死刑判決を受ける(現在住民虐殺に関しては、山下自身が撤退命令を出した後に、パニックに陥ったマニラ防衛軍により行われた行為で、山下自身が指示した物では無いと証明されている。)。法廷内での紳士的な態度と、全ては自らの責任であると主張し一切の弁明を行わない態度に対し、原告側からも非常に純潔かつ高貴な印象を与え、山下に対して同情的な意見が多かった。(ある弁護人は、「日本の武士の姿を見た」と回想している)その為、米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は判決を不服として、フィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし弁護団の努力もむなしく、米最高裁は6対2の投票で却下し絞首刑に処せられた(絞首刑よりも銃殺刑のほうが軍人にとっては名誉がある)。軍服の着用も許されず囚人服のままで処刑は行われた。処刑台は捕虜の日本兵に作らせ、山下を慕う兵たちは涙ながらに作業に従事した。この裁判を取材していた連合国側の12人の新聞記者は判決前のアンケートで全員が無罪と回答している上に弁護人も「我々は復讐的であり偽善的であった。」と述べている。(現在でも山下に対する判決は不服として、名誉回復を主張する意見もある)
辞世の歌
「待てしばし勲のこしてゆきし友 あとなしたいて我もゆきなむ」
[編集] 山下財宝
フィリピンで終戦時に作戦行動のための資金を密かに埋めたという伝説(山下財宝)があり、たびたび探索話が出て、M資金のような詐欺事件の舞台になる。