小磯國昭
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小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年3月22日 - 1950年11月3日、明治13年 - 昭和25年)は、日本の第41代内閣総理大臣。陸軍大将 従二位 勲一等 功二級
因みに、「國」は「国」の旧字であるため、小磯国昭とも書かれる。
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[編集] 経歴
栃木県宇都宮に山形県士族で警察署警部の小磯進の長男として生まれる。陸軍士官学校(12期)・陸軍大学校(22期)卒業。陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・朝鮮総督などを歴任。1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の充実が持論であった。1948年(昭和23年)、戦犯として極東国際軍事裁判で終身禁錮刑となり、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)内で病死。享年70。
[編集] 首相となってからの迷走ぶり
アメリカ軍の圧力がヒタヒタと本土に迫るとき、それは余りにも安易な首相選びだったと言える。東條英機を退陣させることで重臣の意見が一致し、東条内閣を倒閣した後の後任選びとして、南方軍司令官の寺内寿一と小磯の2人に絞られ、前線指揮官の寺内は動かせないということで、朝鮮総督だった小磯に落ち着いた。重臣達は東条内閣を倒すことのみに目が向いて後任として誰を擁立するかを考えていなかったとされる。昭和天皇は『昭和天皇独白録』において、「小磯は三月事件(1931年(昭和6年)3月に発覚した、大日本帝国陸軍によるクーデター未遂事件)にも関係があったと云われてゐるし、又神がヽりの傾向もあり、且経済の事も知らない」と述懐している。近衛文麿・木戸幸一の2人も小磯への不信感は強く、近衛の発案で米内光政海相に首相を兼務させ、異例の首相二人制を敷いた。だが、この苦心の策も、双方が遠慮して全く機能しなかった。
小磯は米軍に一撃を加え、その機会を狙って対米講和に臨むハラだった。しかし、肝心の陸軍、中でも統帥部が小磯の意向通り動かず、最高戦争指導会議で小磯が発言すると、秦彦三郎陸軍参謀次長が「近代的作戦用兵を知らない首相は口出しするな」とたしなめる有様だった。陸軍省内では「この内閣は2ヶ月で潰す」という放言がまかり通っていたとされる。その理由として、小磯は陸軍の超エリートというわけではなかったことを挙げることが出来る。小磯の陸大での成績は同期55人中33番。20番以下の成績で、小磯ほど出世した者は他にはいなかった。若い頃はドサ回りが多く、陸軍内の強固な派閥につながっていなかった。このあたりも、小磯の陸軍内での人気に微妙な影を落としていた。ただ、小磯には他の将軍たちに見られない柔軟さがあったと言える。1930年(昭和5年)、軍務局長に抜擢されると意外な実力を発揮し、人付き合いもよく、耳学問と読書で知識を吸収した。その演説は理論構成もしっかりし、表現力も豊かで一級品といわれた。軍務局長という難しいポストをこなし、頭角を現した。
また、小磯は大変な美声の持ち主で、「河鹿」というあだ名があった。満州事変の頃、東京の花柳界では白頭山節が流行ったが、これを歌わせて小磯の右に出る者はなく、小磯が歌うと芸者が三味線のバチを投げ出すほどだった。
しかし、いくら柔軟で交友関係が広く演説が巧みでも、各方面から不信感を持たれたのでは難局の指導者は務まらなかった。アメリカ軍に一撃を加えるどころか、レイテ沖海戦などで手痛い打撃を受け、東京をはじめとする本土空襲は強まり、焦った小磯は現役に復帰して陸相を兼務し、指揮体制の一元化を図ろうとするが、陸軍の反対で潰されてしまう。また、今で言う政治ブローカーを使って、中国との和平工作(繆斌工作)も行おうとしたが、外相・重光葵の反対にあった。
ちなみに、ナチス・ドイツの宣伝省大臣のヨーゼフ・ゲッベルスはその日記で、「小磯内閣には戦争を続ける力が無い」と記し、日本がドイツより先に降伏して、ドイツが単独で戦争を続けなければならなくなる事に懸念を示していた。
[編集] 内閣の命運
八方塞がりの中、小磯内閣は8ヶ月の短い生命を終えた。小磯の非力もさることながら、そうした人物を厳しい局面で担ぎ出した重臣たちの無責任さには驚くほかない。
[編集] 家族
[編集] 関連項目
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