孝蔵主
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孝蔵主(こうぞうす、? - 寛永3年(1626年4月)は、高台院付きの筆頭上臈(高級女中)で後に徳川秀忠付き上臈となった安土桃山時代~江戸時代初期の武家女性。「孝蔵主」は上臈としての雅名であり、実名は不明。父は蒲生氏家臣であった川副勝重。
北政所(高台院)に仕え始めた正確な年月は詳しい史料が無く不詳であるが、豊臣秀吉が関白になった頃には奥を取り仕切る責任者となっていたと思われる。天正18年(1590年)には謀反の疑いをもたれた伊達政宗に対し秀吉の代理として詰問の書状を送り、慶長2年(1597年)、蔚山城の戦いにおける小早川秀秋の失態で筑前国から越前国への懲罰的移封を決定した際にも、実務を取り仕切っている。これらから考えて、その権限は後の五奉行にも匹敵するほどであったと考えられる。この頃には「表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が」と言われるほどの権威を持っていた。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると翌慶長4年(1599年)高台院と共に大坂城を退去、京の三本木(現在の祇園付近)に移る。その後は高台院執事として徳川家康との折衝役などを務める。しかし慶長19年(1614年)、突如高台院の元を離れ、江戸に移る。その後は徳川秀忠に仕え、江戸城下に屋敷を与えられる。寛永2年(1625年)10月には河内国に200石の領地を与えられる。その翌年に死去。一生未婚であった孝蔵主には子供がなかったため、特別に甥・川副重次が養子となり200石を嗣いだ。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺。
慶長19年に江戸に移ったことに関しては
など相反する仮説が乱立し、未だに謎となっている。片桐且元の例などを見ると徳川家康の離間策の犠牲になったのではと思われる。ちなみに秀忠からもらった200石を公式に拝領した寛永2年10月は高台院の一周忌明けであった。