大迫尚敏
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大迫 尚敏(おおさこ なおはる、弘化元年11月15日 (旧暦)(1844年12月24日) - 昭和2年(1927年)9月20日)は、日本の陸軍軍人、華族。学習院長、第7師団長等を務める。位階勲等は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。大迫尚道陸軍大将の兄。妻は山本盛英陸軍中佐の娘。
薩摩藩士大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。戊辰戦争従軍の後明治4年3月陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み明治6年陸軍省八等出仕、明治7年には陸軍大尉を命ぜられる。明治10年西南戦争に出征、戦中の同年4月に陸軍少佐・熊本鎮台参謀に進む。明治16年6月陸軍中佐・歩兵第6連隊長、明治18年5月近衛歩兵第1連隊長、明治20年には陸軍大佐に進級し明治23年10月第4師団参謀長、翌年の参謀本部第1局長を経て明治25年9月陸軍少将に進み歩兵第5旅団長に就任する。この時日清戦争が起こりこれに出征する。功により明治28年8月男爵の爵位を授かり華族に列せられ、功三級金鵄勲章を賜る。この後、職は参謀本部次長、階級は陸軍中将に進み明治33年4月、永山武四郎中将の後任として第7師団長に就任する。第7師団の母体は北海道開拓と防衛を目的とした屯田兵で、師団改編から4年しか経っていなかった。明治37年2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為に8月に第7師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し明治39年3月に帰国する。この時の功により明治39年4月功二級金鵄勲章を賜り、5月に陸軍大将に進む。明治40年9月子爵に陞爵し、同年11月予備役に編入となる。大正元年11月から殉職した乃木希典大将の後任として学習院院長に就任し、大正6年8月迄務める。昭和2年9月20日薨去。同日付勲一等旭日桐花大綬章受章。
三男の三次は陸軍士官学校を14期で卒業、軍人となるも戦死する。階級は陸軍中尉。娘は陸軍大将林仙之に嫁ぐ。
古武士的な風貌に加え、和歌や漢詩に長じ、息子を旅順戦で亡くしたり、乃木の後任として学習院長を務めるなどの経歴から「薩摩の乃木大将」の異名を持つ。
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