大石無人
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大石無人 (おおいし むじん、寛永4年(1627年)頃 - 正徳2年5月5日(1712年6月8日))は、江戸時代前期の武士。大石内蔵助良雄の遠縁にあたり、大石瀬左衛門信清の伯父にあたる。吉良邸討ち入りの財政的支援者の一人として知られる。名は良総(よしふさ)。通称は無人の他に五左衛門(ござえもん)。
大石内蔵助良雄の曽祖父である大石内蔵助良勝には大石信云という弟があったが、その信云の長男として生まれたのが、この無人であった(次男の大石信澄の子が47士の1人の大石瀬左衛門である)。しかし正保2年(1645年)に父信云が隠居した際に家督を継いだのは弟の信澄であった。無人は庶長子(側室の子)なのであろうか。
いずれにしても無人は、しばらく赤穂藩に仕えたものの、寛文6年(1666年)に藩を離れた。無人の長男の大石郷右衛門良麿や次男の大石三平良穀も赤穂浅野家には仕えず、それぞれ陸奥国弘前藩津軽家と讃岐国高松藩松平家に仕えている。
しかし赤穂浅野家の凶変後、赤穂浪士達の吉良邸討ち入り計画を影から支援し、甥の大石瀬左衛門をはじめ赤穂浪士たちに資金援助をした。さらに吉良邸の動向をさぐり、討ち入りの際には無人や無人の子三平は、邸外の見張りについていたともいわれている。しかしここまで来ると信じがたい。無人らの存在を面白がった人々が無人の働きを過大に伝えたものと思われる。正徳2年(1712年)に死去。享年86。京都の蟠桃院に葬られた。法名は寂照院三性道句。