大石信云
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大石 信云(おおいし のぶこと、文禄元年(1592年)頃 - 延宝3年1月16日(1675年2月10日))は、江戸時代前期の赤穂浅野家の家臣。赤穂浪士47士の1人大石瀬左衛門信清の祖父にあたる人物。通称は八郎兵衛(はちろべえ)。
関白豊臣秀次家臣大石良信の三男として生まれる。母は近衛家家臣進藤筑後守長治の娘志茂。浅野家筆頭家老の大石内蔵助良勝(忠臣蔵の大石内蔵助良雄の曽祖父)は兄にあたる。兄とともに浅野長重・長直父子に仕え、450石を与えられた。大阪夏の陣の天王寺合戦にも兄と共に参加し、武功をあげている。
赤穂浅野家重臣の奥野将監尚次(奥野将監定良の祖父)の娘を妻に迎え、息子に大石良総(無人)、大石信澄(瀬左衛門の父)を儲けた。娘も2人おり、うち1人が奥野将監定次(奥野将監定良の父)に嫁いでいる。正保2年(1645年)に隠居して次男の大石信澄に家督を譲った。隠居後は道雲斎と称する。延宝3年(1675年)1月16日に死去。享年84。赤穂の花岳寺に葬られた。法名は龍吟院起山道雲。