大番役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大番役(おおばんやく)とは平安時代後期から室町時代初期にかけて地方の武士に京、鎌倉時代に入ってからは鎌倉の警護を命じたもの。鎌倉時代の武家法である、御成敗式目が制定されると、大犯三ヶ条において御家人の職務として明文化された。その後南北朝時代に廃れた。鎌倉時代以降は、各国に振り分けられ、各守護が責任者となり、国内の御家人に振り分けして指揮に当たった。これを大判催促という。
[編集] 京都大番役
京都の皇居や院などの守備に当たる役職。後には関白家にも拡大された。地方の武士にとっては負担が大きく、平安時代には3年勤務であったが、源頼朝が半年勤務に短縮し、公家に対して武家の優位が確定する鎌倉時代中期になると三ヶ月勤務と大幅な期間短縮が行われた。
しかしながら平安時代末期においては地方の武士が中央の公家と結び付きを持つチャンスであり、大番役を通して、官位を手にする事が出来た。つまり自らが在地している国のoo介、oo権介、oo掾に任命してもらう事で在庁官人としての地位を手にし、支配権を朝廷の権威に裏打ちしてもらうと言うメリットがあったことも事実である。又、歌などの都の文化を吸収しそれを地方に持ち帰ると言う事も在ったようである。逆にデメリットとして、こうした大番役は惣領に限らず、その子が請け負う事もあったが、子が京にいる間、惣領がなくなった場合、地元で弟、叔父などが勝手に惣領の地位を収奪してしまう、と言う事もあった。(上総広常の例)。又、惣領である父が京にあって、子が地元にいる場合、地元で騒乱があっても迅速な対応が出来かねるということもあった。(畠山重忠の例)。
[編集] 鎌倉大番役
鎌倉の幕府を警備する役目。御恩と奉公の奉公に当たる。御恩と奉公によって導き出される封建制の中にあって、幕府に使える御家人にとっては当然の役職となる。