畠山重忠
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畠山重忠(はたけやま しげただ、長寛2年(1164年) - 元久2年6月22日(1205年7月10日))は、鎌倉幕府初期の御家人である。桓武平氏。父は畠山重能。母は三浦義明の娘。庄司次郎と称した。子に、畠山重保、畠山重秀、畠山重慶がいた。
武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)生れ。治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵に対し、重忠は当初、平家側につき、源氏に属した同族の三浦氏と戦い、居城衣笠城を攻め、祖父の三浦義明を討ち取った。これは父重能が大番役で京に出仕しており、重忠の意思では自由に行動出来なかったためである。直後、京の父と連絡を取る事に成功し父より源氏に対して味方するよう指示を受けると、同年、源頼朝が鎌倉入りした際、重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った家宝の白旗を持って帰参。その後、源義仲、平家追討に従軍し、宇治川の合戦や一ノ谷の戦いで活躍。文治元年(1185年)に河越重頼が源義経に連座した後、重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職を継承。文治三年(1187年)、伊勢国沼田御厨で重忠の代官が狼藉をはたらいたため、千葉胤正に重忠の身柄は囚人として預けられ、所領を没収されたが、赦免される。文治五年(1189年)の阿津賀志山の戦いなどの奥州合戦の功により、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられる。
忠勇無双の士として名高く、頼朝の二度の上洛には、いずれも先陣を務めた。正治元年(1199年)頼朝は死に際し、源頼家の後見を重忠に任せる。 しかし、息子の畠山重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅と争ったことから、謀反の疑いを掛けられ斬首。北条時政から「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受け、出立するも戦闘になり、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において鶴ヶ峯の戦いに敗れ討死。
埼玉県比企郡嵐山町には、重忠の居館だった菅谷館の跡とされるものがあり、空堀などの遺構が残されている。ただし現在残っているのは戦国時代の後北条氏のものであると言われている。