大崎氏
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大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。足利一門に当たる名門一族で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を祖先とする斯波氏の傍流である。
斯波氏の一門であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。
室町時代には、足利氏の流れを汲む奥州管領(後に奥州探題)としてその権威と勢威は奥羽両国に及び、一族の最上氏に出羽一国を分掌させ、羽州探題として支配を確立した。伊達氏・南部氏・葛西氏などの奥州の有力国人は、大崎氏を主君として敬い、参勤することを義務づけられていたと『余目氏旧記』に記されている。この頃が、大崎氏の全盛期であった。
しかし、戦国時代に入るとその権威と勢威を大きく失墜し、葛西氏などとの抗争もあって次第に衰退してゆく。そして第11代当主・大崎義直のときには家臣の古川氏などが反旗を翻す。この頃になると、もはや家臣団を統制する力すら失い、伊達稙宗の援助のもと、ようやく家臣団の反乱を鎮圧することはできたが、このために大崎氏と伊達氏の力や立場関係は完全に逆転し、実質的には伊達氏の服属下に置かれた。
そして義直の子・大崎義隆のときに分家筋にあたる出羽の最上義光の支援のもと、伊達氏から独立を目指して抗争を開始する。天正16年(1588年)に大崎義隆と伊達政宗との間で行われた大崎合戦では義隆は勝利したが、天正17年(1589年)に蘆名氏が滅び、政宗が名実共に奥州の覇者となると、政宗の圧迫を受けて、伊達氏に臣従した。
そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に義隆は参陣しなかったため、所領を没収され改易され、大崎氏は滅亡した。その後、大崎氏遺臣による葛西・大崎一揆が起こったが、家名再興は遂に果たされることなく終わった。
目次 |
[編集] 大崎氏歴代当主
- 斯波家兼【一】
- 最上兼頼(最上氏へ)
- 大崎直時【二】
- 大崎詮持【三】
- 大崎満持【四】
- 大崎満詮【五】
- 大崎持兼【六】
- 大崎教兼【七】
- 大崎政兼【八】
- 大崎義兼【九】
- 大崎高兼【十】
- 大崎義直【十一】
- 大崎義宣【十二】
(大崎義宣は大崎氏の系譜の中でも不明な点が多い人物で、歴代当主に含まれない史料もあるが、ここでは第12代当主として扱う)
- 大崎義隆【十三】
[編集] 大崎氏傘下の人物
黒川氏
- 黒川晴氏 支流の最上氏の分家筋にあたる。伊達氏の傘下に入ったが、伊達氏が大崎攻めを行うと大崎方に転じて、伊達軍を散々に破る。
宮崎氏
- 宮崎隆治
- 宮崎隆親
- 氏家吉継
- 氏家隆継
- 仁木高家
一迫氏
- 一迫隆真
一栗氏
- 一栗放牛
- 一栗高春
米泉氏
- 米泉直行
- 米泉長行
伊庭野氏
- 伊庭野外記
- 伊庭野惣八郎
新井田氏
- 新井田隆景
古川氏
- 古川持熙
- 古川忠隆
その他
- 南条隆信
- 四釜隆秀