大崎義宣
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大崎 義宣(おおさき よしのぶ、大永6年(1526年) - 天文19年5月20日(1550年6月5日))は日本の戦国時代の武将。陸奥の戦国大名・伊達稙宗の次男で、戦国大名・大崎義直(または大崎高兼)の養嗣子。幼名小僧丸。
1536年、大崎氏内部で反乱が起こると、義直は伊達氏の力を借りて反乱を鎮圧した。しかし、この見返りとして稙宗は義直に自分の次男を養嗣子として送り込み、大崎氏の当主とするように強要したのである。これが大崎義宣である。
このような経緯から義宣は義直に疎まれたらしい。そのため、1542年に父の稙宗と兄の伊達晴宗との間で天文の乱が起こり、それによって父が失脚すると、義宣は後ろ盾を失って大崎氏内部で次第に孤立してゆく。そして1550年、義宣は養父の義直に圧迫されたため、葛西晴胤を頼って逃亡しようとした矢先に殺されてしまった。
このような経緯のため、また二十五歳という若さで死んでしまったため、義宣を大崎氏の歴代当主に含まない史料もある。