多田野数人
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多田野 数人(ただの かずひと、1980年4月25日 - )は、日本の野球選手。2006年は米国のプロリーグに参加している。
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基礎データ
- 身長・体重:1m83cm、81kg
- 投打:右投右打
- 出身地:東京都墨田区
- 球歴・入団経緯:八千代松陰高等学校-立教大学-クリーブランド・インディアンス(2003年~2005年)-オークランド・アスレチックス(2006年~)
- 通算成績(05年終了時点、実働2年):インディアンス 15試合1勝1敗0S 投球回54.1 奪三振40 四死球21 自責点27 防御率4.47
来歴
高校時代
高校3年の夏、八千代松陰を初の甲子園へと導いた。
ここから分かるように多田野は4回戦以外、点を取られていない。
大学時代~渡米まで
立教大学時代は、早大和田、法大土居、慶大長田、明大一場らと投げ合い大学通算20勝。松坂世代の一人として話題となる。東京六大学リーグ屈指の右腕投手と高く評価され上位指名は確実と見られていたが、後述のスキャンダルにより日本球界での指名を受けることなく渡米、各球団の入団テストを受け、2003年にインディアンスとマイナー契約をした。
マイナー時代から現在まで
2004年シーズンにメジャー昇格。7月2日(現地時間)のレッズ戦でメジャー初先発初勝利を挙げた。日本でのプロ球界を経ることなく、メジャー入りした日本人選手はマック鈴木(元オリックス・バファローズ)に続き二人目である。
2006年4月1日(日本時間)付で、クリーブランド・インディアンスから戦力外通告を受けたが、4月4日(日本時間)にはオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、メジャーへの挑戦を続けている。
同年のシーズン終了後に日本へ戻り、9月22日から10月12日まで四国アイランドリーグにスポット参戦することが発表された。徳島インディゴソックスに加入することになる。
スキャンダル
東京六大学時代、ドラフトの目玉と言われた早稲田大学の和田毅と並ぶ「左右のエース」という評価をされていたので、複数のプロ球団による争奪戦になることが予想されていた。そして最終的には獲得球団が決定したと報じられた。
しかし、2002年の夏ごろからネット掲示板や週刊誌で「ゲイビデオのパッケージに多田野そっくりの男優が出演している」と噂が流れ、それが「本人ではないか?」というところまで発展していった。その結果、イメージ低下を恐れ獲得を表明していた球団は直前で指名を回避した。スキャンダルについて本人からの真相説明もなかったため、多田野は日本で野球選手になる道を絶たれてしまう。
なお、2ch等でホモネタ等が出たときに用いられることのある「アッー!」はそのゲイビデオからの由来である。
アメリカ渡米後の2004年にはアメリカにもゲイビデオ出演の過去が知られてしまう。多田野自身、ちょうどメジャー昇格するかどうかの大事な時期であったため、日本では行わなかった真相説明を行うことが必要となってきた。日本よりはゲイの理解があるアメリカとはいえ、やはり同性愛者と一緒にプレーすることを嫌がる選手もまだまだたくさんいたからである。ここで多田野はチームメイトやファンに誤解を与えたくないと判断し、苦渋の決断の末記者会見で出演経緯や自分はゲイ(同性愛者)ではないことをきちんと説明した。
「大学時代に(そのような)ビデオに出たことがあり、今はとても後悔しています。当時は若くお金が必要でした。たった1度の過ちであり2度と同じ間違いはしません。」
「ボクはゲイではありません。これだけははっきりと真実を伝えたかった。」
このことは、チームメイトも好意的に受け止めたという。また、日本でも一部のメディアがこの会見の模様を流し、2002年の有力選手のドラフトの指名回避の理由として放送した。
結果、この会見は好印象と受け止められ、多田野自身もメジャー昇格後も不合理な差別を受けることがなく、日本でも多田野の活躍を報じるマスコミが現れたのである。
その他
- メジャーで伸び悩んでいることと、3Aのバイソンズ時代の監督マーティ・レオ・ブラウンが広島東洋カープの監督に就任したため、逆輸入の形で日本プロ野球界に入る可能性もある。
- 同じ立教大学卒業生でアナウンサーの戸部洋子(フジテレビ)と上重聡(日本テレビ)とは同期である。
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