哀宗 (金)
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哀宗(あいそう、承安3年(1198年) - 天興3年(1234年))は、金の第9代皇帝(在位1223年 - 1234年)。金の第8代皇帝・宣宗の三子。姓は完顔、名は初め、守礼で後に守緒(“緒”は糸端の意味で“統”と同様で皇室を守るニュアンスがあったという)。女真名は寧甲速(ニンキャス)。なお、廟号に関しては当初は混乱して義宗(ぎそう)と称された時期もある。現在の廟号に統一されたのは、元代初期であると考えられている。長兄は皇太子の守忠、次兄は濮王(後に荊王)の守純である。
[編集] 生涯
初めは遂王・殿前都点検使に任命される。貞祐4年(1216年)に太子だった長兄の守忠が早世し、代わって彼が皇太子に立てられ、枢密使に累進した。7年後の元光2年(1223年)に父・宣宗崩御に伴って即位した。だが、この時には国の北部をモンゴル帝国に奪われて、都も汴州(開封)に移されていた。金は同じくモンゴルに攻められている西夏との同盟によって活路を見出そうとするが、正大4年(1227年)に西夏が滅亡すると、モンゴル軍の矛先は再び金に向かう。名将・完顔陳和尚の活躍で一時は劣勢を跳ね除けるも、正大8年(1231年)には金軍の拠点であった河中府(現在の山西省永済市)が落とされて、翌年天興元年(1232年)には遂に首都・汴州がモンゴル軍によって包囲された。この間金側は何度か和議を申し出たものの、弟・トルイを戦病死させたモンゴル帝国の大ハーン・オゴデイは、哀宗を「弟の仇」であるとして、一切の交渉に応じなかった。追い詰められた哀宗は翌年に密かに汴州を脱出して、帰徳(現在の河南省商丘市)、亳州(現在の安徽省亳州市)、蔡州(現在の河南省汝陽市)へと逃亡するものの、モンゴル軍の追及が続き、天興3年(1234年)には北からはモンゴル軍、南からは南宋軍によって蔡州城を完全に包囲された。ここにおいて、肥満体の哀宗は軍の統帥であった皇族の完顏承麟(女真名・呼敦、末帝)に皇位を譲る事を宣言して城中の幽蘭軒において自ら縊死したのである。
哀宗の死からわずか半日後、モンゴル・南宋連合軍の攻撃によって蔡州城の金軍は完顏承麟以下悉く全滅して、金はその歴史に幕を閉じることになったのである。