呂範
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呂範(りょはん、生年不明 - 228年)、中国の後漢末から三国時代の人物。字は子衡、汝南郡細陽の人である。呂拠の父。
孫策の時代から孫家に仕え、最後には呉の大司馬に登りつめた名将。立派な風采の持ち主であり、また非常に派手好きだったといわれる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 孫策を支えた剛直の士
戦乱を逃れて一旦は徐州に逃れるが、同地の支配者である陶謙から袁術への内応を疑われたために袁術を頼って江都に逃れる。ここで父である孫堅を失って江都にいた孫策と出会う。
孫策は呂範を高く評価し、また呂範もそれに応えて食客100名とともに孫策に従った。血縁や父の代からの配下以外で、孫策の直接の部下としては一番手といえる。そのころの孫策は、常に危険と隣り合わせであり、山野を渡り歩くような辛酸をなめていた。そういった孫策の苦難の時期を、呂範は愈河とともに支え続けた。
やがて、孫策が江東制覇へ向けて躍進し始めると、呂範もまたこれに従い、県令、都督などを歴任する。
太史慈や黄祖の討伐の際には、中郎将として参戦している。このときの同格者は、周瑜、程普など、孫策軍団の名だたる将軍が名を連ねており、呂範も孫策軍団の中核を担っていた。
[編集] 呉の重鎮として
200年、孫策が覇業の途中で世を去ると、あとを継いだ孫権に従う。孫権は、呂範、周瑜、程普を引き続き軍の指揮官とした。
赤壁の戦いでは、周瑜とともに曹操軍を打ち破り、その功により裨将軍、彭沢太守になる。赤壁の戦いののち、周瑜とともに劉備を呉に留めておくよう進言しているが、孫権に聞き入れられず、結果として、呉蜀の荊州の領有権争いに発展した。
荊州に駐留していた関羽が魏呉連合軍に敗れた後、呂範は建威将軍、宛陵侯、丹楊太守となり、建業において、軍の指揮にあたった。
夷陵の戦いののち、呉が魏から独立をすると魏は3路より呉を攻めるが、このとき呂範は呉の名将・徐盛、全琮らを率い、魏呉の重要拠点・須濡に進撃した曹休・曹真率いる魏軍の迎撃にあたった。呂範は魏軍の攻撃をことごとく退けたが、また曹真らも呉の反撃を寄せつけず、結局引き分けの形となった。この後、暫く戦線は膠着するが、魏と呉が対等な立場において和議を結んだ直後、呂範の船団は暴風雨に襲われ、この隙を逃さず曹休は猛追撃をかけて呂範軍は手痛い打撃を受けるが、魏呉の講和中に魏側から条約を破ったという正当な理由をもって呂範は徐盛、全琮を大将として逆襲させ、今度は逆に呉が大勝した。
228年、呉の大黒柱であった呂範は大司馬に昇進するも印綬の授与を待たずして、この世を去った。 なお、呂範の息子の呂拠は孫権亡き後、転々とする権力を取ろうと続けて起こった権力争いに巻き込まれ、一時的には呉の権力者となるが、また直ぐに争いが起こり、殺害されてしまう。
正史においては武闘派の将軍であると同時に孫策や孫権の兄貴分的な存在であるが、三国志演義においては劉備の暗殺を計画したり、関羽討伐において占いでその退路を予測するなど、それとは全く正反対の冷徹な謀将として描かれている。