孫河
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孫河(そんか、? - 204年?)は、中国三国時代の呉の皇族。字は伯海。呉郡の人で、孫桓の父、孫韶の叔父。
孫家三代に仕え、元の姓は俞であったが、孫策の代に孫姓を賜った。一説には、元々孫堅の族子であり孫姓であったが、俞家に養子に出され、その後孫策の代に戻されたともいう。
[編集] 経歴
孫堅と同郷であり、また彼自身も孫家の血筋を引く。孫堅の旗揚げに若くして従い、腹心として重用され各地を転戦、参加した戦いでは常に先鋒を務めた。
孫堅死亡後に軍閥は解体され、配下の諸将は一時的に袁術配下に吸収されるなど各地に散る中、彼はそのまま孫策に付き従い、呂範と共に不遇時代を支え続けた。孫軍の復興後は呉郡や会稽郡への進撃に従軍し功績を上げる。
孫権の代に李術の討伐で功績をあげ威寇中郎将まで出世し、廬江太守を任された。孫翊が嫣覧と戴員に暗殺された時に駆けつけたが、巻き添えで殺されたとされる。
『三国志演義』では、孫桓の登場時にその父として名前と略歴が出るだけで、物語中には直接登場しない。
[編集] 日本における「愈河」表記について
孫河の元の姓は、陳寿の『三国志』(中文表記)では「俞」(愈から心を取った字。UnicodeU+4FDE)である。しかし、日本語訳本として日本国内で最も普及している書の一つ『正史三国志』7巻呉書Ⅱ(ちくま学芸文庫、訳・小南一郎、ISBN 4-480-08088-0。少なくても第7刷以前)において「愈」と表記された。このため、当該訳本を主な資料として使用した「正史ベース」と称される創作三国志作品において、しばしば愈河と表記されて登場している。
ちなみに同書陸抗伝に記載がある営都督の俞賛は、兪賛と表記されているが、これは字体が違うだけである(俞と愈のように字が異なっているわけではない)。