袁術
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袁 術(えん じゅつ 生年不詳- 199年)は後漢末期の群雄。仲の初代皇帝。『三国志集解』に従うなら、名前の読みはすい。(岡崎文夫はこの説に従っている。)字は公路(こうろ)。父は後漢司空の袁逢。袁紹は異母兄とも従兄ともいわれる。同母兄は袁基。袁術は袁氏を陳の宣公時代の大夫・轅濤塗の末裔(轅濤塗は帝舜の血脈)と称した。
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[編集] 経歴
[編集] 御曹司から諸侯へ
若いころは侠気をもって知られ、仲間達と遊びほうけていたが、後に行いを改め孝廉に挙げられ、順調に昇進し河南尹、虎賁中郎将に至った。
189年に霊帝が崩じた後、袁紹と共に政事を跋扈する宦官数千名を誅殺する。その後董卓が都に入ると、後将軍に任じられたが、害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ奔った。長沙太守の孫堅が南陽太守を殺害したため、袁術はその後任に収まり、南陽郡を支配し、孫堅を豫州刺史に任じて董卓を攻撃させた。南陽郡は人口が多く豊かであったが、袁術が贅沢を尽くし、税を際限なく取り立てたために人々は苦しんだ。
[編集] 二大勢力
袁術は袁紹と対立しており、それぞれ群雄と手を結んで争っていた。袁紹についたのが曹操、劉表、韓馥ら、袁術についたのが孫堅、公孫瓚、陶謙らである。袁紹が董卓のたてた献帝に対抗して、劉虞を擁立しようとするが、袁術は真っ向から反対している。
192年(初平3年)、孫堅に命じて劉表を攻撃させたが、孫堅は敗死する。
193年(初平4年)、兗州の曹操を攻撃するも曹操と袁紹の連合軍に大敗、揚州へと逃走し、寿春に拠る
その後、孫堅の遺児である孫策に揚州を攻略させ、楊州刺史劉繇を撃たせるなど勢力を拡大するが、奪った領土は袁術子飼いの武将に分け与えられた。この行為は孫策の反感を買い、後の離反へとつながった。
ちなみに、その時に幼少であった陸績が袁術の元におり、袁術が陸績におやつとして蜜柑を与え陸績がそれを母親に食べさせたいからと言う理由で隠し持って帰ろうとしたことが判り「とても親孝行な子供だ」と自ら褒め称えたという逸話が二十四孝として残っている。
[編集] 皇帝僭称
197年(建安2年)に彼は寿春を都として皇帝を称した。「国号を成と称号し、元号を仲家としたものの諸群雄の同意を得られず、また袁術本人の奢侈により人心を失った。」などという俗説が有名だが、それは誤解で、いわゆる国号が仲である。おそらく『後漢書集解』にある「仲氏(仲家)とは劉氏の漢家や公孫述の成家のように」国号である、との文を読み違えたものと思われる。
しかし献帝はまだ健在であり、諸侯からは皇帝として認められず、また袁術自身が欲望のままに快楽を求めて、国内に重税を布いて贅沢三昧の生活を送ったため、国民は大いに苦しんだ。この無茶苦茶な暴政に袁術の家臣の多くも袁術に見切りをつけ、離反する者が相次いだ。孫策も帝位の僭称を諫める手紙を送っているが、納れられず離反している。
だがこの時に呂布と同盟をしており、諸侯が呂布討伐で苦しんでいたため他国からあまり攻められはしなかった。
[編集] みじめな最期
呂布滅亡後、曹操らに攻められ国を失い、部下の雷薄、陳蘭を頼って落ち延びたが受け入れてもらえず、199年(建安4年)夏6月に袁紹の元へ逃げる途中に病死した。韋昭の『呉書』によると、蜂蜜入りの飲物を所望したが、蜂蜜も無かった。そこで「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と怒鳴り、一斗(当時は約1.98リットル)余りの血を吐いて死んだという。
袁術の妻子は、元の部下の廬江太守劉勲に身を寄せ、孫策が劉勲を破った際に孫策に保護された。袁術の娘はその後孫権の側室となり、息子の袁燿も呉に仕官している。娘(袁夫人)は行いは正しかったが、男子は生まれなかった(女子については不明)。また、他の夫人の産んだ子を何人か彼女に養育させたが、いつも育たなかった。実質的な正室の歩夫人が死去すると、皇后に立てようとする動きがあったが、袁夫人は辞退した。のち、潘夫人(孫亮の母)の讒言により、孫権に殺された。
『三国志演義』では「伝国の玉璽」を得た事が皇帝僭称の直接的な動機になったとしている。また、袁術の死に関しては、曹操から袁術攻めの協力を求められた劉備の義兄弟・張飛の配下の山賊に兵糧攻めにされて、最後は大好物の蜂蜜が無いのに怒り、血を吐いて死んだと書かれている。三国志演義では袁術最後の話には他にも諸説が作られ、甥の袁胤のみが生き残り飢えと苦しみの中歩き続けとある農家に辿り着き水を求めるものの、その農家の主人は昔袁術が支配していた町の市民であり、水が入った瓶を割って飲み水が無くなったことを告げると「栄華を誇っていた俺にはもう民心は付いてこないのか…」と落胆し、血を吐いて死亡するという話がある。