孫堅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孫堅(そんけん、 Sun Jian 155年または156年 - 191年または192年)は中国後漢末期の軍人・政治家、呉の祖。字(あざな)は文台、呉郡富春の人。家系は孫氏。春秋時代の兵家である孫武の子孫と伝えられている。ただ、孫堅の父祖に関する記述が一切ないため、その信憑性は低い。孫策、孫権、孫翊、孫匡、孫朗、孫夫人の父である。兄に孫羌、弟に孫静がいる。諡は武烈皇帝。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 黄巾の乱まで
彼の父を初めとしてどういう家の生まれであったか不明である。ただ、南朝宋代に書かれた『異苑』と言う書物に瓜売りをしていた孫鍾と言う人物が孫堅の父とある。また、同じく南朝宋の文献と見られ、孫鍾が記述された『幽明録』、『宋書』・符瑞志等々にもその名が記載されているという。さらに、東晋の裴啓が著した『裴子語林』にも孫鍾の事項が記されているともいう。
孫堅が17歳の時、立ち寄った銭唐において、海賊が略奪を行っている状況に遭遇する。それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍を指揮して、海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは、大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。
やがて、司馬になった孫堅は、会稽郡で起こった許昌の乱の鎮圧に乗り出す。この時代、江東一帯には、宗教勢力がいたるところに存在しており、許昌の乱も宗教勢力が起こした反乱だった。 一部隊長である孫堅に情勢を左右するほどの権限は与えられていなかったが、昇進していることから、比類ない軍事的才能を発揮したと思われる。
乱鎮圧後、孫堅はその功績により、いくつかの県の次官を歴任したが、その間、自らの軍団の強化に努める。孫家三代に仕え、孫軍団の中核を担う程普も、このとき孫堅の下に集まった。
184年、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は、漢王朝の中朗将であった朱儁配下の武将として参戦。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。
朱儁が汝南、潁川と転戦し、従う孫堅も軍功をあげていった。宛城の攻略においては、西南方面の官軍を率いて大勝利を収めている。
[編集] 董卓と孫堅
黄巾の乱で名をはせた孫堅であったが、186年には、涼州で起こった反乱の鎮圧に向かう。孫堅はそこで宿敵董卓と出会った。
当初、反乱鎮圧には中朗将の董卓があたっていたが、情勢が芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温が指揮を執ったのであるが、その際、孫堅は参軍として、参加していた。 董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州への進軍に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。 後日、董卓はこの事をいずれからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。
後年、董卓は、占いの結果の吉凶にかこつけて、かねてから憎んでいた張温を殺害するなどしている。
[編集] 反董卓連合軍
やがて、孫堅は荊州南部の反乱鎮圧を目的として、長沙太守に着任する。反乱を鎮圧しつつ、孫堅は自らの軍団の強化にあたる。数年後に孫策に率いられ、孫軍団の爆発的な勢力拡大に貢献する朱治や黄蓋も、このとき孫堅の下に集いだしたと思われる。このように、荊州南部で軍閥化し始めた孫軍団は、反乱鎮圧をしつつ、実戦経験を十分に積んでいった。
孫堅が荊州で勢力を強化していったころ、洛陽では、董卓が実権を握る。少帝を廃位し、献帝を擁立した董卓に対し、袁紹を中心とした反董卓連合軍が挙兵した。
荊州刺史の王叡も反董卓連合軍に参加した。しかし孫堅とは折り合いが悪く、王叡は孫堅を辺境へ追いやろうとした。このようにして、自らの覇業の障害となった王叡を孫堅は殺害した。その後、すぐさま何の咎もない南陽太守・張咨をも殺害し、反董卓連合軍に属していた袁術を迎え入れて、その幕僚となる。袁術と孫堅は、孫堅の才能と兵力、袁術の袁家の求心力、それらが反董卓連合軍への参加という共通の利害により結びついた関係であった。しかし、この関係が、やがて孫堅の命運を左右することになる。
自軍に損害が出ることを嫌う諸侯は董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅といった軍団が董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍は、董卓配下の徐栄軍と激戦を繰り広げる。孫堅軍も董卓軍に対し、一進一退の攻防を繰り広げるが、董卓配下の華雄を倒し、呂布を退却させるなどの戦果をあげていった。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李カクを使者に立てて懐柔しようとしたが失敗し、まもなく遷都を決断する。
孫堅軍が、まもなく洛陽に進軍するところで、董卓は洛陽に火を放ち、献帝とともに長安へと後退する。孫堅は、董卓が焼け野原にした洛陽の都に入城した。
一方、反董卓連合軍もお互いの利害が対立(皮肉にも袁術が、孫堅を豫州刺史に推薦したことが分裂への決定打になったと言われる)し、もはや長安まで進軍する余裕はなかった。袁術も長安進軍については乗り気ではなく、孫堅としても後ろ盾がない状態で、長安まで進軍することはできず、洛陽の復旧に力を注ぐことになる。それは忠臣としてのイメージを孫堅に与えることになった。なお、洛陽復旧の際、孫堅が玉璽を見つけたという伝説があるが、真偽は不明である。この頃の活躍は演義ではあまり描かれていない。
[編集] 江東の虎散る
反董卓連合軍が瓦解し、盟主である袁紹と、袁術が対立し始め、孫堅はその争いに巻き込まれていく。袁紹配下の武将たちと戦いを繰り広げる中、孫堅は、自らの基盤を確保すべく、荊州への進軍を行う。荊州では、劉表が勢力を伸ばしつつあり、袁術にとっても目障りな存在だった。両者の利害はここでも一致した。
孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦し、これを打ち破る。しかし、襄陽近辺で黄祖の部下が放った矢に当たり、そのまま絶命した。享年37であった。
孫堅軍は、孫堅の死をもって瓦解し、袁術軍に吸収されることとなる。再び孫軍団が戦場で破竹の勢いを見せるのは、息子である孫策の手によるところとなる。
[編集] 孫堅の没年と死因
孫堅の没年と死因については、陳寿の『三国志』や裴松之が掲載した注釈、あるいは後の史書類によって異同が見られる。以下、列挙する。
- 陳寿の本文
- 初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。『三国志』劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。
- 孫破虜伝・注『典略』
- 没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北。茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺。
- 孫破虜伝・注『呉録』
- このとき37歳。本項では以上の3説を概ね採用した。
- 孫破虜伝・注『英雄記』
- 初平4年(193年)正月7日に逝去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。死因については『三国志演義』に採用された。なお、三国志演義では初平2年11月に死亡したとする。
- 孫討逆伝・注『呉録』内、孫策の上表
- 孫堅が死んだとき、孫策は17歳だったと記載している。
- 孫討逆伝内・裴松之の考察
- 孫策の享年(26歳)から逆算すると、初平3年のとき孫策は18歳であったはずであり、『呉録』上表の記述と一致しない。また、『漢紀』と『呉歴』はそれぞれ初平2年(191年)に死亡したと記述しており、こちらが正しく本伝は間違っていると断定する。
- 『後漢書』孝献帝紀
- 初平3年、界橋の戦い(袁紹と公孫瓚との戦い)の前に記載。董卓の死はさらにその後である。
- 『資治通鑑』巻60・漢紀52
- 初平2年の条に記載。