南昌起義
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南昌起義(なんしょうきぎ、南昌蜂起)は、1927年8月1日に中国共産党が江西省南昌で起こした武装蜂起である。
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[編集] 経緯
1927年5月に蒋介石は中国国民党からの共産党分離を決定し、汪精衛が主にその実行部隊であった。
これに対して共産党は独自の軍事力を持たず、いずれかの地で国民党内部の武力を一部接収する形で武装化を進めようとしていた。このころ、国民党内部にはかなり多くの共産党人士が存在しており、要職についているものも多かった(国共合作を参照のこと)。
このような中、当時北伐軍の駐留する都市の中で南昌が比較的手薄な配備であった。また、南昌の公安局長は朱徳が務めており、条件は整っていた。
[編集] 蜂起
当初共産党は周恩来を首班とする前敵委員会を組織し、7月30日に決起することと決定したものの、前日に武漢から張国涛が到着し、時期尚早であり、決起後の見通しも曖昧な状態であると主張して強く反対を唱えた。朱徳こそ公安局長の職務にあり、警察権力を握っていたものの、共産党の軍事力は武漢より移動してきた張国涛、葉挺、賀龍などの北伐軍から寝返った部隊を期待せざるを得なかったため、張国涛の反対は決起そのものの成否に大きく関わる大問題であった。また、蒋介石の南京国民政府は距離は離れているものの動員可能兵力は大きく、長期戦となれば敗北は必至であった。さらに、武漢汪精衛政権の管理する北伐軍からより多くの造反者を獲得しうるものと考えていたものの、実際には張国涛は一万程度の部隊を引き抜き、寝返らせることしかできなかった。張国涛は自らの失点を自覚しつつ、彼我の戦力差を冷静に把握していたのである。
周恩来はまず武漢で期待された役割を全うし切れなかった張国涛を、革命委員会の中枢に招き入れることで懐柔し、また決起後も共産軍の名称は使用せず、国民党軍第二軍の認識番号を継続使用することを決めた。さらに、この決起は聯ソ(ソ連に協力する)・聯共(共産党に協力する)・扶助工農(労働者と農民を助ける)を目的とし、自ら共産党軍を名乗ることはしないという妥協案を示し、張国涛ら反対派を押し切った上で再度8月1日を決起日と定めた。
決起部隊は総勢2万余となり、8月1日に総決起、ほぼ午前中に一旦南昌を掌握した。しかし。張国涛の指摘を待つまでも無く、国民党軍第二軍(実質的な紅軍)のみでは南昌の長期維持は不可能であり、周辺の農村や町の共産化・根拠地化を早急に進めない限り、先行きは絶望的であった。
[編集] 敗退
8月1日に南昌の占拠に成功した紅軍であったが、早くも8月3日には国民党軍の包囲攻撃を受けて南昌を放棄し、広東方面に転進する。南方で勢力を蓄えて後北伐すると言う当面の方針は出されたものの、実質的な敗退であり、事実明確な目的地を示すことが出来ない指導層は敗退を繰り返す。
[編集] その後
最終的に1928年4月に、朱徳・陳毅率いる主力部隊が井崗山革命根拠地に合流し、中国工農革命軍第四軍に改組された。
[編集] 評価
後に中国共産党は8月1日を建軍記念日とし、紅軍・八路軍・人民解放軍を通じて祝日となっている(軍隊内部のみの記念日であるが、中華人民共和国では全国各地で式典が開催される)。