北米植民地戦争
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北米植民地戦争(ほくべいしょくみんちせんそう)は、17世紀から18世紀にかけて植民地時代の北米大陸で行われた一連の抗争の総称であり、それぞれの植民地戦争は欧州における戦争に呼応する。一連の抗争はアメリカ合衆国でのみFrench and Indian Warsと総称されるが、後述のフレンチ・インディアン戦争と紛らわしいので、ここでは表記のタイトルとする。
北米での戦争にスペインやオランダが巻き込まれることもあったが、基本的にはイギリス、その植民地やインディアン同盟軍とフランス、その植民地やインディアン同盟軍が対立する構図であった。拡張する英仏の北米植民地は西部あるいは内陸地域の支配権をめぐって競合し、ヨーロッパで戦争が起きると必ず北米大陸に波及した。一連の北米植民地戦争は次の通り。
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[編集] ウィリアム王戦争
名誉革命によって英王となったウィリアム3世 (イングランド王)は1689年欧州のアウグスブルク同盟に参加し、英仏の対立が開始された。このため、北米でも英領アメリカと仏領カナダが戦端を交えたが、決定的な結果を得ることができず、1697年のレイスウェイク条約によって鉾を収めた。
[編集] アン女王戦争
欧州のスペイン継承戦争に呼応して開始された北米植民地戦争(1702年~1713年)で、英軍は仏領アカディアのポートロワイヤルを占領し、1713年のユトレヒト条約によってカナダ東部のニューファンドランドとハドソン湾地域を獲得した。
[編集] ジョージ王戦争
欧州のオーストリア継承戦争に呼応して始まった北米植民地戦争(1744年~1748年)で、ニューイングランド植民地軍はカナダ東部の要衝ルイズバーグ要塞を陥落させたが、アーヘン条約(エ・ラ・シャペル条約)によって要塞をフランス側に返還した。せっかくの植民地軍の奮闘も欧州全域における英国の国益のために無視された格好となった。
[編集] フレンチ・インディアン戦争
フレンチ・インディアン戦争は欧州の七年戦争(1756年 - 1763年)の2年前から北米で開始された英仏植民地戦争(1754年 - 1763年)で、当初はインディアンと同盟したフランス軍が優勢だったが、最終的に英軍がケベック市とモントリオールを占領してカナダを制圧し、1763年のパリ条約によってカナダ全域を獲得した。フランスはフォンテヌブロー条約でもルイジアナ植民地をスペインに割譲し、北米の植民地を喪失した。
[編集] 歴史的評価
戦争の進行につれて英国の優位が次第に明白となった。フランスのヌーベルフランス植民地(カナダ)に対して英国のアメリカ植民地が人口でも生産力でも優位にあり、フランスはインディアン同盟軍の効果的な使用によって補おうとしたが結局は英国に圧倒された。
皮肉にも英国の圧倒的勝利はニューイングランド植民地の喪失を招いた。フランスの脅威がなくなると、ニューイングランド植民地は英国の軍事的保護をほとんど必要としなくなり、むしろ新たに獲得したカナダがニューイングランドから分離支配されたことに不満を抱くようになった。これが結局はアメリカ独立戦争となって爆発することになる。
またウィリアム3世によって開始された英仏の抗争はナポレオン戦争終結まで続き、第2次英仏百年戦争と呼ばれることもある。
[編集] 関連項目
- プラッシーの戦い - インドの植民地同士の争い