信濃川朝鮮人虐殺事件
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信濃川朝鮮人虐殺事件(しなのがわ ちょうせんじん ぎゃくさつじけん)は、信濃川の上流から朝鮮人の死体が次々と流れてくるという大正期に起きた怪事件。
1922年(大正11年)7月、信越電力株式会社は信濃川の支流中津川上流に水力発電所の建設をはじめた。集められた土工は1,000余名であったが、そのうち半数は朝鮮人であった。工事は「蛸部屋」と呼ばれる低劣狭隘な共同住居に労働者を拘束する形で、全くの人海戦術がとられたのであったが、勤務態度が怠惰であったり、職場を放棄して逃亡しようと試みて失敗した者らが、監督者らに陰惨な仕打ちを受け、遂には絶命した者の虐殺体が遺棄され流されてきたのである。
工事開始以来連日流れてきたため新潟県内流域などで大騒ぎとなり、これを東京の読売新聞が同年7月29日、おどろおどろしい見出しとともに報じたので広く巷間に知れ渡るようになった。犠牲者の総数や、そのうちどれほどが朝鮮人であったか等肝心な部分は今日なお判然としない。
しかし当時東京にあった朝鮮人朴烈らは、この怪事件の裏に横たわる、朝鮮人労働者に対する根深い差別意識に憤怒し、ただちに同年9月7日、神田美土代町キリスト教青年会館(YMCA)で「信濃川虐殺問題大演説会」を開催し、事の真相を明らかにするよう要求した。
先に社会主義者堺利彦、山川均らによって創刊された政治誌『前衛』もこれを大きく取り上げ、大阪で同年12月「朝鮮人労働者同盟」が発足するや、日本総同盟も朝鮮人による労働運動に目を向け始め、怪事件をきっかけとして、日本の社会主義と朝鮮の労働運動がここにはじめて接近したのである。