伊達輝宗
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伊達 輝宗(だて てるむね、1544年(天文13年) - 1585年11月29日(天正13年10月8日))は、伊達氏第十六代当主で、伊達晴宗の次男。生母は岩城重隆の娘・久保姫。伊達政宗、伊達政道、秀雄(大悲願寺15世住職、江戸中野宝仙寺14世法印)の父。本姓は藤原氏。輝宗には親隆という兄がいたが、岩城氏を継いだために代わりに世継となる。後に父・晴宗との内紛を経て、伊達氏の当主となった。
[編集] 経歴
息子(政宗)の教育にはとても熱心であり、元亀3年(1572年)に甲斐国から武田信玄の師とされる快川紹喜の弟子である臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者、僧を当時の伊達家居城、米沢城に招くなどしている(政宗も鈴木元信や川村重吉ら多くの人材を他国から招いている。これはこの時代稀有な事例だった。父の影響であろうか)。更に家中から多くの有望な若手家臣を早くから政宗に仕えさせた(片倉景綱、原田宗時、伊達成実ら)。また教育に熱心だったことは「弟子のために最高の師と教育を」の名文句からも力の入れようが伺える。
正室は当時「奥羽の鬼姫」と噂された最上義守の娘(最上義光の妹)・義姫であるが、彼女は政宗の弟・小次郎を溺愛していたという。(後に弟は母と共謀し政宗を暗殺しようとするが、返り討ちにあっている)ちなみに、輝宗の「輝」の字は室町幕府の第13代将軍・足利義輝から1字を与えられたものである。
輝宗は性格温厚であったが、武将としての資質は平凡だったといわれる。天文の乱を引きずっていて、家臣団が分裂を繰り返していたため、中野宗時ら重臣の謀反もあった。そのような状況下で自分が伊達家をまとめることは困難と判断したのか、40歳のとき、早くからその聡明さで家臣たちの人望を集めていた19歳の政宗に家督を譲り、一線を退くも、政宗は彼を慕っていて、政宗の政策にも一定の影響力を持っていたようだ。奥羽制覇を目指し、近隣の小大名を次々に飲み込んでいった(その勢いの凄まじさは撫で斬りとも称された)政宗は二本松城を支配する畠山義継(二本松義継)に目をつける。当時の伊達家には味方が少なく、近隣の諸勢力は蘆名氏に服属している状態であった。しかし、彼は持ち前の謀略を駆使して二本松城を追い詰めてゆく。
1585年10月、畠山義継は政宗の下に参じて降伏を申し入れる。当初、政宗はこれに対し苛烈な態度で望み、義継の所領を大幅に制限するつもりだったが、性格温厚な輝宗は政宗の決定に対し難色を示したようで(義継が性格温厚な輝宗に罰の軽減を依頼したともいわれる)政宗は罪の軽減を決定していた。しかし、一説によれば館内で刀を研ぐ兵士を見て義継が態度を変えたとも言われるが、義継は政宗の不在を狙って輝宗を連れ、滞在していた宮森城から二本松城に戻ろうとした。政宗が追いついたのは阿武隈川河畔の安達郡平石村高田といわれる(付近に二本松義継供養塔が残る)。政宗の銃撃で二人とも死んだとも、最期を悟った義継が輝宗を殺害したあと割腹したとも言われる。上記の事件には異説も多い(若くして隠居したためにまだまだ家中に強い発言力を持っていた輝宗のことを政宗が疎ましく思い謀殺した等)が、これにより畠山義継と輝宗が死亡した。畠山家はまだ幼少の国王丸(二本松義綱)が継いだが、翌年の二本松城攻撃で城を追われた。
当主としては大きな功績を残せなかった輝宗であるが、その温厚な性格は家臣の人望を集めていたようで、彼の死後、遠藤基信ら多くの重臣が殉死の道を選んでいる。寿徳寺(福島県福島市、現在は慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺(山形県東置賜郡高畠町)に葬られた。
[編集] 系譜
伊達氏宗家 |
歴代当主 |
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平安末期~戦国末期
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陸奥仙台藩主(松平陸奥守家)
伊達政宗|伊達忠宗|伊達綱宗|伊達綱村|伊達吉村|伊達宗村|伊達重村|伊達斉村|伊達周宗|伊達斉宗|伊達斉義|伊達斉邦|伊達慶邦|伊達宗基 |
明治~現在
伊達邦宗|伊達興宗|伊達貞宗|伊達泰宗 |