最上義守
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最上 義守(もがみ よしもり、大永元年(1521年) - 天正18年5月18日(1590年6月19日))は出羽の戦国大名。中野義清(中野義建の子で最上義淳の孫)の子。最上義光・中野義時(実在が疑われている)・長瀞義保・楯岡光直・義姫(伊達輝宗妻)の父。
先代の最上義定が嗣子の無いまま没したため、当主不在の最上氏の混乱を収拾するため、一族の中野氏から養子に迎えられ、1522年、わずか一~三歳で家督を継承する。当初、義定死後は伊達家が最上家を傀儡化しようとしていた。しかし、永正17年(1520年)、一族の最上義房が伊達家に反旗を翻し、また、それに幾多の豪族たちが加わり、優勢に立ったので、伊達稙宗の妥協によって、義守の家督相続が成ったのである。その後、義守は15歳のとき、山寺立石寺を復建させて、最上家領内の復興に努めた。この頃の最上氏は伊達氏に事実上服属していたが、1542年、伊達稙宗と伊達晴宗との父子の間に天文の乱が発生すると稙宗に属して伊達領に出兵して長井を制圧し、独立する。その後も勢力拡大に励むが、不首尾に終わった。
以下、創作と思われるエピソードであるが(最上義光を参照)、義守は晩年、次男の中野義時(実在が疑われている)を溺愛し、嫡男・義光を疎んじた。義光はクーデターを起こそうと画策。これに伊達輝宗が干渉し、最上家に再び危機が訪れたが、重臣の氏家定直の仲介で一時は和睦した。しかし、定直の死後、再び義光と争って敗れ、強制的に隠居させられた、というものである。ただ、実際に義守は禅門の道に進み、政治からは身を引いたことは事実であり、義守と義光との間になんらかの確執があったのかもしれない。
天正18年5月18日、70歳で死去。最上義光は父の葬儀により小田原参陣が大幅に遅れ、徳川家康のとりなしにより本領を安堵された。