京谷好泰
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京谷 好泰(きょうたに よしひろ、1926年1月24日 - )は、昭和~平成期の鉄道技術者。元日本国有鉄道(国鉄)浮上式鉄道技術開発推進本部長。リニアモーターカー発明者。
[編集] 来歴
広島県福山市生まれ。子供の頃から家族の時計をばらしてはまた組み立てたり理科の実験に熱中した。戦時中は高校生ながら学業を休み、三井造船の艦艇電気工場で潜水艦に関する仕事に従事した。第六高等学校を経て1948年、京都大学工学部(旧制)卒業。最初は船の仕事を希望したが、母親に「船に乗ったらどこかへ行ってしまう」と泣きつかれ運輸省に入省。1年後国鉄が出来たので国鉄に移籍。戦争でやられた機関車を日本の復興のためにと徹夜で修理した。神戸鷹取工場や大宮工場で鉄道車両の改造、検査修繕などに当たり、その後本社工作局修車課で新幹線の車輪・車軸開発に携わる。その新幹線が開業して間もない1964年、上層部から次世代交通の開発を命ぜられた。当時、欧米で理論的な研究が行われていた「超伝導」技術を使って、世界に先駆け日本独自の「超伝導方式による次世代超高速鉄道」の開発を推し進めた。この頃、超伝導は加速度による衝撃に弱い、というのが世界的な定説だった。超伝導を採用した理由は速さより「無公害」なのが大きな理由だったと言う。1968年、国鉄技師長室調査役となり、以降リニアモーターカー開発の中心的な存在として指揮を執った。「東京―大阪1時間」「10センチ浮かせろ」を標榜。部下に広島弁で「軽うせい!(軽くしろ!)、軽うせい!」と耳にタコが出来るほど繰り返して怒鳴ったため、カルーセル麻紀をもじって付けられたあだ名は「ミスター・カルウセー」。
1970年、リニアモーターカーの開発が正式発表された。この発表の席で、当時まだ名前の無かった超高速鉄道に「いい名前を付けて下さいよ」と新聞記者に迫られ「リニアモーターカーかな...」と呟くと、翌日の新聞に大々的に発表されリニアモーターカーは、饅頭やプラモデルなど便乗商品が発売されるなど一時期大ブームとなった。大阪万博の日本館にも突貫工事で展示された。70年代には宮崎実験線での世界最高速度記録更新が大々的に報道され、子供の科学雑誌に「夢の乗り物」の代表格としてよく取り上げられた。1972年、研究所の構内で初めて実験車LSM200が浮いて走る。1976年、国鉄本社副技師長。1983年、浮上式鉄道技術開発推進本部長。開発当初から多くの批判を受け続けたが、日本人離れした発想力とバイタリティ、技術力で開発を推し進めた。しかしながら国鉄の累積赤字による民営化でリニアモーターカー開発事業が縮小化。自らも退社を余儀なくされた。現在は株式会社アテック代表取締役。
1981年、科学技術功労者受賞。1988年、紫綬褒章受章。1998年、勲三等瑞宝章授与。
[編集] 関連本・参考図書
- 『10センチの思考法』 自著 すばる舎
- 『リニアモーターカー 超電導が21世紀を拓く』 自著 日本放送出版協会
- 『超高速新幹線』 共著 中公新書
- 『お父さんの技術が日本を作った!メタルカラーのエンジニア伝』 茂木宏子著 小学館
- 『匠たちの挑戦(全3巻)』 研究産業協会監修 オーム社
- 『磁気浮上式鉄道の時代が来る?』 Ralf Roman Rossberg 1990年 電機車研究会
- 『翔べ!リニアモーターカー』 澤田一夫 三好清明 1991年 読売新聞社
- 『超電導が鉄道を変える』 久我史郎 清文社 1988年
- 『疾走する超電導 リニア五五○キロの軌跡』 井出耕也 1998年 ワック