遣唐使
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遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐王朝に派遣した使節のこと。中国では618年(推古28年)に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。894年(寛平6年)に菅原道真の建議により停止された。
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[編集] 遣唐使の目的
海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。
第一次遣唐使は、630年(舒明天皇2年)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。 貞観5年(631年)に倭国は使者を派遣して、入貢し方物を献じたが、太宗は、倭国は遠い国であるから、毎年朝貢する必要はない、と担当の役所に命じた、という。
- 貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。『旧唐書』倭国日本伝
- (「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 敕所司無令歳貢」『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國)
- 太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。『新唐書』日本伝
- (「太宗貞觀五年 遣使者入朝 帝矜其遠 詔有司毋拘歳貢」『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本)
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。
[編集] 回数
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
- 12回説:藤家禮之助
- 20回説:東野治之、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。
[編集] 遣唐使船と航路
遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用いていた。横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人程度が乗船した。
むろん、当時の航海技術などは半ば風任せと同じであり、まさに命懸けであった。漂流しても後で帰還できればまだいいほうで、往復何事も無く無事航海を終えることは奇跡に近かったであろう。
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川駅)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て那の津(福岡県福岡市)へ向い、玄界灘へ出た。
[編集] 派遣者一覧
なおこの一覧は最も回数の多い20回説を採用している。
- 第1回 舒明2年(630年) - 舒明4年(632年):犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
- 第2回 白雉4年(653年) - 白雉5年(654年):吉士長丹・吉士駒・高田根麻呂・掃守小麻呂・道昭
- 往途、薩摩竹島付近で海難
- 第3回 白雉5年(654年) - 斉明元年(655年):高向玄理・河辺麻呂・薬師恵日
- 高向玄理は帰国せず唐で死亡。
- 第4回 斉明5年(659年) -斉明7年(661年): 坂合部石布・津守吉祥・伊吉博徳
- 往途、第1船、南海の島に漂着、坂合部石布、殺された
- 第5回(送唐客使)天智4年(665年) - 天智6年(667年):守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間
- 第6回 天智6年(667年) - :伊吉博徳
- 第7回 天智8年(669年) - ?:河内鯨(大使)
第5回~第7回は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
以上が2隻、これ以降は4隻
- 第8回 大宝2年(702年) - 慶雲元年(704年:粟田真人(遣唐執節使:しつせつし)・山上憶良(少録:しょうさかん)・高橋笠間・坂合部大分
- 第9回 養老元年(717年) - 養老2年(718年):多治比県守・阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・大伴山守・藤原馬養・井真成
- 第10回 天平5年(733年) - 天平7年(735年):多治比広成・中臣名代・平群広成・大伴古麻呂
- 第11回(746年) - 派遣中止:石上乙麻呂
- 第12回 天平勝宝4年(752年) - 天平勝宝6年(754年):藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
- 帰路、鑑真同乗。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は難破し唐に残留
- 第13回(藤原清河のため迎入唐使) 天平宝字3年(759年) - 天平宝字5年(761年):高元度
- 第14回 天平宝字5年(761年) - 船破損のため派遣中止:仲石伴・石上宅嗣・藤原田麻呂
- 第15回 天平宝字6年(762年) - 唐使沈惟岳を送らんとするも風波便なく渡海できず派遣中止:中臣鷹主・高麗広山
- 第16回 宝亀8年(777年) - 宝亀9年(778年):藤原鷹取・小野石根・佐伯今毛人・大神末足
- 大使佐伯今毛人、病と称し行かず。副使小野石根、帰途遭難死
- 第17回(送唐客使) 宝亀10年(779年) - 天応元年(781年):布施清直・多治比広成
- 第18回 延歴23年(804年) - 大同元年(806年)10月:藤原葛野麿・石川道益・最澄・空海・橘逸勢
- 往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
- 第19回 承和5年(838年) - 承和6年(839年):藤原常嗣・小野篁(副使であったが派遣前に逃亡流罪にされた)・円仁
- 第3船、筑紫出発後遭難、その後小野篁、病と称し行かず、帰途、新羅船9隻を雇い帰る、第2船、南海の地に漂着、知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
- 第20回 寛平6年(894年) - 派遣中止:菅原道真(大使であったが派遣中止を進言)・紀長谷雄
遣唐使一行(『延喜式』大蔵省式による) 大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅奄美訳語・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人 挟杪・水手長・水手など
[編集] 遣唐使の停止
遣唐使は、894年(寛平6)の派遣が菅原道真の建議により中止された。直後の907年(延喜7)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史は幕を下ろした。
[編集] 関連
映画『天平の甍』(1980年東宝 原作:井上靖、監督:熊井啓)
[編集] 参照項目
[編集] 外部リンク
[編集] 関連書
- 古瀬奈津子 『遣唐使の見た中国』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー ISBN 4642055541
- 東野治之 『遣唐使船 東アジアのなかで』 朝日選書 ISBN 4022597348
- 専修大学・西北大学共同プロジェクト 編 『遣唐使の見た中国と日本 新発見「井真成墓誌」から何がわかるか』 朝日選書 ISBN 4022598808
- 茂在寅男 『遣唐使研究と史料』 東海大学出版会 ISBN 4486009460
- 王勇 『唐から見た遣唐使 混血児たちの大唐帝国』 講談社選書メチエ ISBN 4062581256
- 上田 雄 『遣唐使全航海』 草思社 ISBN 4794215444
- 東野治之 『遣唐使と正倉院』 岩波書店 ISBN 4000006223
- 曹復・人民中国翻訳部 『遣唐使が歩いた道』 二玄社 ISBN 4544052084
- 佐伯有清 『最後の遣唐使』 講談社現代新書