三角貿易
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三角貿易(さんかくぼうえき、英: triangular trade)とは、主に三つの国や地域が関係している貿易構造のこと。
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[編集] 概要
2国間の国際貿易において、長期間貿易収支が不均衡のままであると、赤字の国から国際通貨(近世・近代では銀)が流出し続け、その国は貧困化してしまう。その打開策の1つとして、多国間貿易によって貿易の均衡を目指すことがある。
多国間貿易の内、大航海時代以降にイギリスに黒字をもたらした3国間(3地域間)貿易を特に「三角貿易」という。三角貿易は、主にイギリスの都合に従ってつくられたものであるため、実際には他の2ヶ国(2地域)にとっては不都合であり、様々な軋轢を生んだ。
[編集] 具体例
[編集] 砂糖・銃・奴隷
三角形の頂点にあたる地域は、ヨーロッパ・西アフリカ・西インド諸島の3地域。辺にあたる貿易ルートはヨーロッパの船による一方通行となっており、また、特定の海流に乗っている。
- ヨーロッパ → 繊維製品・ラム酒・武器 → 西アフリカ(カナリア海流)
- 西アフリカ → 奴隷 → 西インド諸島など(南赤道海流)
- 西インド諸島など→ 砂糖・綿 → ヨーロッパ(メキシコ湾流・北大西洋海流)
17世紀から18世紀にかけて、イギリスをはじめとするヨーロッパでは喫茶の風習が広まり、砂糖の需要が急激に高まった。それに伴い、砂糖を生産する西インド諸島およびブラジル北東部などでは労働力が必要となった。
こうした状況の下で、ヨーロッパから出航した船は、カナリア海流に乗って西アフリカへ繊維製品・ラム酒・武器を運んだ。輸出された武器は対立するグループ間へ供与され、捕虜(奴隷)の確保を促すこととなった。それらの品物と交換で得た奴隷を積み込み、南赤道海流に乗って西インド諸島やブラジルへと向かい、交換で砂糖を得て、メキシコ湾流と北大西洋海流に乗って本国へ戻った。こうして、ヨーロッパ→西アフリカ→西インド諸島→ヨーロッパという一筆書きの航路が成立し、「三角貿易」と言われた。
奴隷の一部はアメリカ合衆国南部へと輸出され、多くは綿花のプランテーションで働かされることとなった。綿花はイギリスの織物工場へ輸出され、産業革命の基盤になったとされている。
[編集] 茶・アヘン・綿織物
三角形の頂点にあたる地域は、イギリス・インド・清の3つの国。辺にあたる貿易ルートは実際には両方向通行であり、またインドの中継貿易の形をしているため、三角形の形になっていないが、手形の流通によって三角形となっている。主要な取引品目の流れについて記載。
19世紀始め頃、イギリスとインドの2国間貿易ではイギリスの貿易黒字、イギリスと清の2国間貿易ではイギリスの貿易赤字が続いていたが、対インド黒字で対清赤字を穴埋め出来ず、国際通貨の地位にあった銀が対価としてイギリスから清に流出していた。ただし、この時期、既に為替手形による国際貿易が成立していたため、手形交換所があるロンドンから直接清に銀が流出していたのではなく、中継貿易地となっていたインドから清へ銀が流出していた(インドの対清赤字)。
事態打開を図るため、インドでアヘンを製造し、清へ密輸する活動が活性化した。清ではアヘン消費が拡大し、銀はインドの綿製品輸入を経由してイギリスへ渡った。
清はこの取引において大量の銀流出に見舞われ、密輸を禁じることで打開しようとするが、それがアヘン戦争へとつながることになる。