ヴィニフレート・ヴァーグナー
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ヴィニフレート・ヴァーグナー(Winifred Wagner, 1897年6月23日 ヘイスティングス - 1980年3月5日 ユーバーリンゲン)は、ジークフリート・ヴァーグナー未亡人でバイロイト音楽祭の主宰者。本名はウィニフリード・マージョリー・ウィリアムズといい、イングランド出身だが、2歳にならずして両親を相次いで失い、親戚をたらい回しにされた末、母方の遠縁にあたるドイツ人ピアニストカール・クリントヴォルトに引き取られた。クリントヴォルトはヴァーグナーの親友で、このためヴィニフレートは筋金入りのワグネリアンとして育てられた。
バイロイト音楽祭はワーグナー家の家業として構想されたため、指導権はリヒャルト・ワーグナーから未亡人コジマを経て、息子ジークフリート・ワーグナーに受け継がれなければならなかったが、ジークフリートは両性愛ないしは同性愛的傾向があり、結婚には興味がなく、男ばかりの取り巻きを好んでいた。1914年のバイロイト音楽祭では、17歳の「ヴィニフレート・クリントヴォルト嬢」が呼び付けられ、45歳のジークフリートに引き合わせるべく手はずが整えられる。翌1915年9月22日に二人は結婚した。結婚によって、ジークフリートの同性愛と、それにかかわる手痛いスキャンダルに終止符が打たれることが期待されたためである。二人は矢継ぎ早に4人の子供をもうけている。
ヴィニフレートは、ワーグナーの熱狂的崇拝者であるアドルフ・ヒトラーと1923年に初めて出会う。ヒトラーがミュンヘン一揆に失敗して投獄されると、ヴィニフレートは食べ物や原稿用紙を差し入れ、『我が闘争』が書かれることになった。コジマとジークフリートが相次いで亡くなると、ヴィニフレートはバイロイト音楽祭の支配権を掌中に収め、1930年から主宰者を務めたが、第二次世界大戦終了後は、その地位から追放された。
ヴィニフレートはヒトラーやナチズムの完全な信奉者であり、バイロイト音楽祭は、ドイツのオペラ興行の最高峰にして、ナチス・ドイツの国家的行事の頂点を飾るという事態に至った。彼女とヒトラーのつながりはあまりに近かったため、1933年まで、二人は結婚するとのデマが流れたほどだった。バイロイトのワーグナー家の邸宅であるヴァーンフリート荘は、ヒトラーのお気に入りの休息所だった。ヒトラーはバイロイト音楽祭に協賛して免税し、ヴィニフレートの子供たちに格別のとりはからいを見せた。
バイロイト音楽祭はドイツ人のナショナリズムや、北方人種の自己実現、「民族的völkisch 」な願望についての宗教的な熱狂の祭典として機能した。ヒトラー同様ヴィニフレートもこれらの有用性を信じ込んでおり、ナチスに義父ヴァーグナーの美的理念の実現を見て取った。第三帝国崩壊後は、公職追放に処せられ、わけてもバイロイト音楽祭の経営を禁じられたため、ヴィーラントならびにヴォルフガングの兄弟の出番となった。
1975年に、ヴィニフレートはハンス=ユルゲン・ジューバーベルクのドキュメンタリー・フィルムでインタビューに応じ、自らの過去についてまったく悪びれた様子を見せなかった。最も衝撃的だったのは、ヒトラーへの愛情を告白したことだった。「彼と出逢ったことは……避けようのない体験だったのでしょう」 と言っている。彼女とヒトラーの親密さが、性的なものだったか否かは定かでなく、そうと決め付けるだけの確証もない。