ヴィクトル・ユシチェンコ
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ヴィークトル・アンドリーオヴィチ・ユシチェンコ(ウクライナ語: Віктор Андрійович Ющенко, Viktor Andrijovych Juschenko; 1954年2月23日 - )は、ウクライナの政治家。現ウクライナ大統領。[1]
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[編集] 生い立ち
1954年2月23日、ソビエト連邦の一部だった、ウクライナ共和国東部のスムィ州ホルジェフカ村の教師の家庭に生まれた。父親のアンドレイは、第二次世界大戦に出征、独ソ戦で捕虜となり、アウシュヴィッツ強制収容所に収容されていた。
ユシチェンコは、ウクライナ西部のテルノポリ財政・経済大学を卒業し、経済科学準博士号を取得する。卒業後、徴兵され1年間、当時ソ連国家保安委員会 (KGB) 所属だった国境軍で勤務した。KGBに勤務したことにより、暫くの間ウクライナの極右・民族主義勢力には認められなかった。
[編集] 銀行家
1976年から、銀行勤務。ソ連時代、著名な財務官ワージム・ヘチマンにその手腕を認められ、ウクライナ独立後、1993年から1999年まで、ウクライナ国立銀行理事長を務めた。任期中、通貨発行の抑制に努め、IMF等から高い評価を受けるが、その一方で貨幣不足による給料・年金の遅配・欠配が生じ、政界から不興を買う。1999年末、ウクライナ国債の債務不履行に対処するため、急遽、首相に登用され、債権団との繰り延べ交渉をまとめあげる。
[編集] 政治家
1999年12月から2001年4月まではウクライナ首相を務めた。彼の首相在任時、ウクライナのGDPは初めてプラス成長に入いる幸運に恵まれ(99年下半期に既にプラス成長)国民的人気を獲得するが、クチマ大統領の忠僕を振るまい、反クチマ勢力を落胆させた。人気がピークに達した時、議会から不信任決議を突き付けられ、2001年5月に解任される。首相辞任後の2002年1月、10個の政党が合同した選挙ブロック「我らのウクライナ」を結成し代表となる。2002年3月の議会選挙においての24.7%の支持を獲得した。
2004年、レオニード・クチマ大統領の任期満了に伴い、大統領選挙に野党から立候補した。2004年9月、ユシチェンコは突然、重病にかかり、顔面は痘痕だらけとなった。ダイオキシン中毒によるものとされ、ユシチェンコ陣営では反対陣営による置毒を主張しており、国民の同情は高まった。 11月21日、決選投票が行われ、与党の推す親露派のヴィークトル・ヤヌコヴィチ首相と、決選投票になった。しかし、ヤヌコヴィチ首相が勝利したという投票結果を巡り、ウクライナを東西に二分する大混乱(オレンジ革命)を引き起こし、最高裁判所の裁定により再選挙を実施することになった。
12月26日に実施された再選挙では、ユシチェンコがヤヌコヴィチを大差で破り当選。ヤヌコーヴィチ陣営はユシチェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴したが再び野党による政府施設の封鎖が起こり、30日には提訴が却下、政権交代が確定した。そして2005年1月23日、ウクライナ最高会議で宣誓し大統領に正式に就任し、オレンジ革命の盟友ティモシェンコを首相に任命。
政権内部の亀裂が深刻化する中、2005年9月8日ユシチェンコは、ユリア・ティモシェンコ首相以下全閣僚を解任する大統領令に署名した。ユーリイ・イェハヌーロフ;ドニエプロペトロフスク州知事代行を首相代行に任命し、組閣を要請した。2006年3月の議会選挙では、エハヌロフを一位候補とする「我らのウクライナ」が第三位の得票で惨敗するとその政治力も低下し、その後の多数派工作を巡る議会混乱でイニシアチブを発揮することなく、仇敵ヤヌコヴィッチ内閣の誕生を許すこととなった。
[編集] 側近グループ
ユシチェンコの側近グループは、4グループに分かれる。
第1グループは、彼の子供達を名付けた人々である。その中には、「アジオ」銀行理事長スタニスラフ・アルジェヴィチン、議会予算委員会委員長ピョートル・ポロシェンコ、有名な女性歌手オクサーナ・ビロジルがいる。このグループには、最も有力な盟友、ユリア・ティモシェンコも含まれていたが、ユシチェンコとの対立によりティモシェンコは首相を解任され、批判的立場に回っている。
第2グループは、兄のピョートル・ユシチェンコが率いている。この第2グループには、クチマ前大統領との連絡係である代議員オレグ・ルイバチュクが含まれる。ルイバチュクは、クチマの娘のエレーナ・フランチュクと彼女の夫のヴィクトル・ピンチュクの旧友である。ルイバチュクは、ユシチェンコと共にロシア人への書簡の発議者となり、ウクライナ民族主義を否定している。
第3グループは、議会副議長アレクサンドル・ジンチェンコと代議員アレクサンドル・トゥルチノフ等、クチマの元盟友である。
第4グループは、金融界である。彼の最も明らかな代理人は、グルジア人のダヴィド・ジュヴァーニヤである。ジュヴァーニヤは、ロシア大統領候補イワン・ルイプキンがキエフに隠れるのを助けたことがある。ジュヴァーニヤの存在は、彼の友人であるボリス・ベレゾフスキーのウクライナ選挙戦への関与も示唆している。ジュヴァーニヤと共に、ユシチェンコの会計係となったのは、ロシアの「欧州保険同盟」ウクライナ代表部を率いる代議員アレクサンドル・モロゾフである。
[編集] 対日関係
大の寿司好きであり、政敵により顔面崩壊の原因は寿司ネタの食中毒のせいだと揶揄されるほどである。
2005年7月20日、日本安保理参加への支援の為、来日。来日時、ソ連軍の戦利品である日章旗を日本に返還している。
[編集] パーソナル
2度結婚している。前妻のスヴェトラーナ・コレスニクは、銀行家時代の庇護者ワージム・ゲチマンの名付け子。後に離婚。
後妻のカテリーナ・クレア・チュマチェンコは、ウクライナ系アメリカ人で、「銀行保障」プログラムのディレクター、人権担当国家書記官アシスタント特別補佐官であり、ホワイトハウスの社会関係事務所と米財務省で各種職務を占めた。彼の政敵は、カテリーナをCIAのスパイと呼んでおり、クチマ大統領やウクライナ保安庁 (SBU) すらもその真偽に興味を持った。彼女は、ウクライナ大統領選挙中にアメリカ国籍からウクライナ国籍への切り替えを宣言したが、実施されたかは不明。
ウクライナ大統領名誉賞を授与。経済科学アカデミーのアカデミー会員、サイバネティックス専門家、「キエフ・モギリョフ・アカデミー」とオストロシュク・アカデミーの国立大学名誉博士、ウクライナ功労経済学者、科学及び技術領域のウクライナ国家賞受賞者、金融問題に関する300件の記事の著者。1997年の「Global Finance」のレイティングの結果によれば、世界最良の金融学者の6人の中に入った。テルノポリ市の名誉市民。
ユシチェンコの議会の同僚は、ヴィクトルのだらしなさ(3時間遅れる)と彼の未熟さについて語っている。このため、議員時代、自分の会派の一部を失っている。2005年7月には、息子アンドレイの放蕩が報道されると、報道機関に「注文」を付け、民主主義の闘士とは思えない親馬鹿ぶりを発揮した。
[編集] 註釈
- ↑ 日本のマスコミでは「ユーシェンコ」の表記も見られる。詳しくはWikipedia:外来語表記法/ウクライナ語を参照。
[編集] 外部リンク
- ウクライナの首相
- 第7代
-
- 先代:
- ワレーリー・プストヴォイチェンコ
- 次代:
- アナトリー・キナフ