ロジャー・クレメンス
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守備位置 | 投手(先発) |
所属球団 | ヒューストン・アストロズ |
背番号 | 22 |
日本でのキャリア | なし |
アメリカでのキャリア | 1984- |
誕生日 | 1962年8月4日 |
身長 | 193 cm |
体重 | 106.6 kg |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
出身校 | テキサス大学 |
年俸 | $ |
出身地 | オハイオ州デイトン |
前所属球団 | ニューヨーク・ヤンキース |
MLBデビュー年 | 1984年5月15日 |
ニックネーム | ロケット |
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ウィリアム・ロジャー・クレメンス(William Roger Clemens, 1962年8月4日 - )はアメリカメジャーリーグ、ヒューストン・アストロズの投手。150km/hを越える球速とその力強い弾道、育った場所がNASAの連絡基地のあるヒューストン近郊という事からロケットと呼ばれる。1980年代からメジャーを代表する投手の一人。歴代最多7度のサイ・ヤング賞を受賞し、多くの野球解説者から大リーグ史上5本の指に入る投手といわれる。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] プロ入りまで
テキサス州で幼年期の大半を過ごす。ヒューストン近郊のスプリング・ウッズ高校では一塁手と投手を務め、テキサス州選抜に選ばれる。アメリカン・フットボールのディフェンシブとして1つ、バスケットボールのセンターとして2つの推薦を受けるものの、野球を選択。1981年にはサン・ヤシント・ジュニアカレッジで全米選抜に選ばれる。同年ニューヨーク・メッツにドラフト12位(全米288位)で指名されるがこれを拒否。1982年から進学したテキサス大学では2年間で25勝7敗、275イニングを投げ、奪三振241を記録。1983年に全米大学野球選手権で優勝し、同年ボストン・レッドソックスにドラフト1位(全米19位)で指名されて入団した。テキサス大学に付けていた背番号21は同大学最初の永久欠番となっている。
[編集] ボストン時代
1984年5月5日、ボストン・レッドソックスでメジャーリーグにデビュー。以後、ボストンのエースとして大活躍を続けた。1986年には24勝を挙げ、ワールド・シリーズ進出に貢献したが、チームは優勝を手にすることが出来なかった。ボストン在籍13年間で一度もワールド・シリーズで優勝していないことだけが心残りだった。 1996年、時のGM(ゼネラルマネージャー)ダン・ダケットから「彼は絶頂期を過ぎた(=今までのような働きはもう期待出来ない)」とチームから放出され、シーズンオフにトロント・ブルージェイズへ移籍。このGMは今でもボストンのファンの怒りを買っている。
[編集] トロント時代
1996年オフ、ワールドシリーズ出場の可能性を求めて、長年過ごしたボストンを離れることを決意し、積極的な補強を進めていたトロント・ブルージェイズへ移籍した。トロントでは2年連続20勝をあげる活躍を見せたが、皮肉なことにチーム成績は芳しくなく、プレーオフ進出もままならなかった。
[編集] ニューヨーク時代
1998年オフ、再度新天地を求め、こともあろうにボストンの最大のライバル、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、クレメンスを愛していたボストン野球ファンの激しい怒りを買った。それでも1999年、ニューヨークでついに念願のワールドチャンピオンに輝くことができた。
[編集] ヒューストン時代
そして通算300勝を達成した2003年、引退表明をしていたが、シーズンオフに撤回し故郷テキサスのヒューストン・アストロズと契約した。これは、地元の家族とそばにいるためと、同じくヤンキースから移籍したアンディ・ペティットともう一度野球をやりたかったからと本人は言っている。 そして2004年、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)でのサイ・ヤング賞受賞を達成した。オフに再び引退をほのめかすが、またもや撤回。
2005年も防御率1.87という優れた成績を残した。同年オフ、球団は高年俸・高年齢を理由に年俸調停を申請せず、クレメンスはフリーエージェントとなった。調停を申請しなかったアストロズはルール上、2006年5月1日まで再契約が出来なくなった。 本人は2006 ワールド・ベースボール・クラシックに集中するためとしてしばらく進退の公表を控えていたが、WBC2次ラウンド・メキシコ戦敗退後には「個人的には、現段階で『さようなら』だ」と引退を示唆する発言をしていたため、引退が噂された。しかし、その後も古巣のヤンキース、レッドソックス、アストロズ、さらにテキサス・レンジャーズが獲得に興味を示した。
結局、2006年5月31日にアストロズで現役を続行することが決まり、1年契約で2200万0022ドル(約24億8000万円)もの巨額の契約を結んだ。ただし、シーズン途中からの入団となるため、実質的に受け取る額は約1200万ドルほどとみられる。 契約額には"22"が二つ。記者会見の開始時刻も12時"22"分。さらにはメジャー復帰登板の予定日が6月"22"日と背番号にちなんで22づくしとなった。
[編集] 性格
- 強いプロ意識と厳しい鍛錬に裏打ちされたパワーと技術は高い評価を得ている。多くの投手がクレメンスに憧れ、手本としている。
- 同時に短気と荒い気性でも知られ、ビーンボール(故意の死球・危険球)を投げることで有名である。2000年にメッツのマイク・ピアザに対して折れたバットを打者に投げ返すという前代見聞の事件をおこし、大きな批判を浴びた。本人はバットをボールと間違えたと弁解している。以後ピアザとクレメンスは犬猿の仲としてしられる。
- クレメンスには、人間としてより投手としての本能が勝っていることを示すエピソードがある。妻と遊びの野球ゲームをしていたとき、クレメンスの投げた山なりボールを妻がジャストミートし、ボールは遙か遠くへ飛んでいった。そしてクレメンスが次に放ったボールは全力剛速球のビーンボールであった。同様に2006年の春季キャンプ、ワールド・ベースボール・クラシックのための調整でマイナーリーグに登板した際に息子のコービー・クレメンス(当時1Aの選手、2005年ヒューストン・アストロズに8位(全米254位)で指名され入団した。)に本塁打をされると、やはり次の打席での彼に対する初球はビーンボールであった。バッターが誰であろうと、打たれることを絶対に許さないというクレメンスの闘争本能を示すエピソードである。
- 三振には特に強いこだわりがあり、4人の子供の名前の頭文字はいずれもスコアブックで三振を意味する「K」となっている(コービー(Koby)、コーリー(Kory)、ケイシー(Kacy)、コーディー(Kody))。
[編集] 主な投球、打撃について
クレメンスの持ち球は150キロ台の速球とよく落ちるスプリット。たまにカーブも混ぜて投げる。日頃からの節制・鍛錬(彼がよく言う"hard work")の結果、速球は40歳を超えた今でも球威は十分である。打撃は意外に得意で、大きい体を揺さぶりながら走る。
[編集] 縁の無い記録
これほどの輝かしい成績を残しているにも関わらず、不思議なことにノーヒット・ノーランや完全試合には縁が無い。30代後半以降は完投もほとんど無いため、現役引退までに達成できるかは微妙である。
[編集] 引退宣言 そして撤回
2003年、通算300勝を達成したクレメンスは現役引退を表明する。ところがシーズンオフに「99%」と語っていた引退を撤回。故郷テキサスのヒューストン・アストロズと電撃的に契約を結ぶ。 2004年は一度引退を表明した選手とは思えないすばらしい成績を残す。そしてオフ、クレメンスは再び「99.9%引退する」と宣言する。しかし、その後FAを宣言したり、年俸調停で球団側に2200万ドル(約22億6000万円)を提示するなど現役続行への動きを見せ、2005年1月22日に投手としては史上最高額となる1800万ドル(約18億5000万円)の一年契約を結んだ。これは野手を含めても史上4位タイの高額契約だった。
彼がたびたび引退を仄めかすのには理由がある。最愛の母・ベスが病気がちな上、かなりの高齢であるため、生きているうちに殿堂入りをする自分の姿を母に見せてあげたいと思っていたからであった(引退後5年を経過しなければ殿堂入りの資格は得られない)。そのため、オフのたびに現役続行か引退かで心が揺れ動いていた。そして、2005年9月14日午前4時30分ごろ、息子の殿堂入りを見届けることなくクレメンスの母はこの世を去った(享年75)。当日先発予定だったクレメンスは「前の晩、母に『仕事に行きなさい』と言われた」と、母の死を見届けた後、予定通りに先発登板。ワイルドカードを争うマーリンズを7回途中、1失点に抑え12勝目。通算340勝目を天国の母へ捧げた。
その後も2005年のシーズンオフにアストロズを自由契約となった後、WBC2次リーグ敗退の際「現時点では『さよなら』だ」という引退表明とも取れるコメントを残したが、2006年5月31日に2200万0022ドル(約24億8000万円)でアストロズと1年契約ながら再契約を結び、6月22日に再契約後初登板を行った。
[編集] その他
- 打撃時の入場に用いている曲はLinkin Parkの『Faint』である。
- 過去に伊良部秀輝がテレビで、デイヴィッ・ウェルズ、デイヴィッ・コーンとともに腕のフリがみにくく、キャッチボールの段階から凄かったと証言した。
[編集] 獲得タイトル
- アメリカンリーグ・MVP:1回、1986年
- アメリカンリーグ・サイ・ヤング賞:6回、1986年、1987年、1991年、1997年、1998年、2001年
- ナショナルリーグ・サイ・ヤング賞:1回、2004年
- 最優秀防御率:7回、1986年、1990年、1991年、1992年、1997年、1998年、2005年
- 最多勝利:4回、1986年、1987年、1997年、1998年
- 最多奪三振:5回、1988年、1991年、1996年、1997年、1998年
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 勝利 | 敗戦 | 防御率 | 試合 | 先発 | セーブ | イニング | 被安打 | 失点 | 自責点 | 被本塁打 | 四球 | 奪三振 |
1984 | BOS | 9 | 4 | 4.32 | 21 | 20 | 0 | 133.1 | 146 | 67 | 64 | 13 | 29 | 126 |
1985 | BOS | 7 | 5 | 3.29 | 15 | 15 | 0 | 98.1 | 83 | 38 | 36 | 5 | 37 | 74 |
1986 | BOS | 24 | 4 | 2.48 | 33 | 33 | 0 | 254.0 | 179 | 77 | 70 | 21 | 67 | 238 |
1987 | BOS | 20 | 9 | 2.97 | 36 | 36 | 0 | 281.2 | 248 | 100 | 93 | 19 | 83 | 256 |
1988 | BOS | 18 | 12 | 2.93 | 35 | 35 | 0 | 264.0 | 217 | 93 | 86 | 17 | 62 | 291 |
1989 | BOS | 17 | 11 | 3.13 | 35 | 35 | 0 | 253.1 | 215 | 101 | 88 | 20 | 93 | 230 |
1990 | BOS | 21 | 6 | 1.93 | 31 | 31 | 0 | 228.1 | 193 | 59 | 49 | 7 | 54 | 209 |
1991 | BOS | 18 | 10 | 2.62 | 35 | 35 | 0 | 271.1 | 219 | 93 | 79 | 15 | 65 | 241 |
1992 | BOS | 18 | 11 | 2.41 | 32 | 32 | 0 | 246.2 | 203 | 80 | 66 | 11 | 62 | 208 |
1993 | BOS | 11 | 14 | 4.46 | 29 | 29 | 0 | 191.2 | 175 | 99 | 95 | 17 | 67 | 160 |
1994 | BOS | 9 | 7 | 2.85 | 24 | 24 | 0 | 170.2 | 124 | 62 | 54 | 15 | 71 | 168 |
1995 | BOS | 10 | 5 | 4.18 | 23 | 23 | 0 | 140.0 | 141 | 70 | 65 | 15 | 60 | 132 |
1996 | BOS | 10 | 13 | 3.63 | 34 | 34 | 0 | 242.2 | 216 | 106 | 98 | 19 | 106 | 257 |
1997 | TOR | 21 | 7 | 2.05 | 34 | 34 | 0 | 264.0 | 204 | 65 | 60 | 9 | 68 | 292 |
1998 | TOR | 20 | 6 | 2.65 | 33 | 33 | 0 | 234.2 | 169 | 78 | 69 | 11 | 88 | 271 |
1999 | NYY | 14 | 10 | 4.60 | 30 | 30 | 0 | 187.2 | 185 | 101 | 96 | 20 | 90 | 163 |
2000 | NYY | 13 | 8 | 3.70 | 32 | 32 | 0 | 204.1 | 184 | 96 | 84 | 26 | 84 | 188 |
2001 | NYY | 20 | 3 | 3.51 | 33 | 33 | 0 | 220.1 | 205 | 94 | 86 | 19 | 72 | 213 |
2002 | NYY | 13 | 6 | 4.35 | 29 | 29 | 0 | 180.0 | 172 | 94 | 87 | 18 | 63 | 192 |
2003 | NYY | 17 | 9 | 3.91 | 33 | 33 | 0 | 211.2 | 199 | 99 | 92 | 24 | 58 | 190 |
2004 | HOU | 18 | 4 | 2.98 | 33 | 33 | 0 | 214.1 | 169 | 76 | 71 | 15 | 79 | 218 |
2005 | HOU | 13 | 8 | 1.87 | 32 | 32 | 0 | 211.1 | 151 | 51 | 44 | 11 | 62 | 185 |
2006 | HOU | 7 | 6 | 2.30 | 19 | 19 | 0 | 113.1 | 89 | 34 | 29 | 7 | 29 | 102 |
Total | ' | 348 | 178 | 3.10 | 691 | 690 | 0 | 4817.2 | 4086 | 1833 | 1661 | 354 | 1549 | 4604 |
2006 ワールド・ベースボール・クラシックアメリカ合衆国代表 |
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1 マイケル・ヤング | 2 デレク・ジーター | 3 ケン・グリフィー・ジュニア | 5 マット・ホリデー | 6 ヴァーノン・ウェルズ | 7 ジェフ・フランコーア | 8 マイケル・バレット | 10 チッパー・ジョーンズ | 13 アレックス・ロドリゲス | 18 ジョニー・デイモン | 19 アル・ライター | 20 ヒューストン・ストリート | 21 ランディ・ウィン | 22 ロジャー・クレメンス | 23 マーク・ティシェイラ | 24 ブライアン・シュナイダー | 25 デレク・リー | 26 チェイス・アトリー | 32 チャド・コルデロ | 33 ジェイソン・ヴァリテック | 35 ドントレル・ウィリス | 36 ジョー・ネイサン | 38 ゲーリー・マジュースキー | 39 ダン・ウィーラー |40 ブライアン・フエンテス | 45 ジェイク・ピービー | 50 マイク・ティムリン | 54 ブラッド・リッジ | 59 トッド・ジョーンズ | 61 スコット・シールズ |
監督 バック・マルティネス | 項 | |