レインゴリト・グリエール
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レインゴリト・モリツォヴィチ・グリエール、レインホリト・フリエール(ウクライナ語:Рейнгольд Моріцович Глієрレーインホリド・モリツォーヴィチュ・フリイェール;ロシア語:Рейнгольд Морицевич Глиэрレーインガリト・マリツォーヴィチュ・グリエール;フランス語:Reinhold Glière、1875年1月11日 - 1956年6月23日)はウクライナ生まれの、ロシア帝国末期からソ連建国期に活躍した作曲家である。
[編集] 概要
キエフに生まれる。父親はドイツ人の楽器職人で、母親はピアノをよくしたポーランド人であった。生後まもなくプロテスタントの教会で受洗。民族的にも宗教的にもロシアの血は入っていないとされる。モスクワ音楽院でセルゲイ・タネーエフ、アントン・アレンスキー、イッポリトフ=イワノフなどに作曲を師事。1901年よりしばらくベルリンに留学し、作曲の研究のかたわら、ベートーヴェンやマーラー作品の解釈で定評のあった指揮者オスカー・フリートに指揮法を師事。グリエール自身もモスクワ音楽院で1920年から1941年まで教鞭を執り、プロコフィエフやハチャトゥリアン、リャトシンスキーらを指導した。1938年から1948年まで、ソ連作曲家同盟組織委員会の議長をつとめた。モスクワにて他界。
グリエールはスクリャービンやラフマニノフと同世代であり、チャイコフスキーと国民楽派の両方から影響を受けている。初期作品の室内楽や2つの交響曲は、ドイツ後期ロマン派音楽、たとえばブラームスやワーグナーの影響が歴然としているが、それでもなお《交響曲 第2番》では、強烈な民族的表現も明らかである。
帰国後に作曲され、ストコフスキーやオーマンディに愛された交響曲 第3番《イリヤー・ムーロメツ》(1911年~12年)は、グラズノフへの献呈作品であり、構想や音色の好みにおいてリムスキー=コルサコフを髣髴させる華麗で気宇壮大な標題交響曲である。第1楽章ではロシア正教の聖歌が転用されており、第2楽章では、スクリャービン中期の様式によって、「拡張された調性」と変化和音の多用がいちじるしい。第3楽章はボロディンやグラズノフの民族主義的な作風にしたがっている。
ロシア革命後のグリエールの作風は、国民楽派的な要素が影を潜めたかわりに、中国や中央アジアの民族音楽を自由に活用するなど、オリエンタリズムを強調する方向に傾いた(「ロシア水兵の踊り」が有名なバレエ音楽《赤い芥子》(1927年)など)。しかしながらモダンなコスモポリタンな作風へとは進まずに、依然としてロマン派音楽の伝統の上で創作を続けた。晩年の作品《コロラトゥーラ・ソプラノのための協奏曲》や《ホルン協奏曲》、《ハープ協奏曲》は、初期のロマン派音楽の様式に戻っていて、いくぶん無国籍の観を免れない。それにもかかわらず、というよりもそのために、スターリン治下のソ連においては、社会主義リアリズムの模範的作曲家と見なされ続けた。キエフにあるキエフ高等音楽院の正式名称は、グリエールの功績を記念して「R・M・グリエール記念キエフ国立高等音楽院」となっている。
ちなみに Glière というフランス語風の綴りは、作品出版の際に、出版社によって誤って付けられたもので、元々はドイツ語の「Glier」(グリーア、グリール)という苗字だった。これをキリル文字で綴ってロシア語式に「文字通りに」発音すると、「グリエル」ということになり、これが混乱の出発だったようである。なお、ロシア語名では「レーインゴリト・モリツォーヴィチ・グリエール」、ウクライナ語名では「レーインホリド・モリツォーヴィチ・フリイェール」のようになる(長音は略記されることがある)。