ラヴレンティ・ベリヤ
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ラヴレンティ・パーヴロヴィチ・ベリヤ(キリル文字:Лавре́нтий Па́влович Бе́рия,Lavrentij Pavlovič Berija, ラテン文字:Lavrenty Beria, 1899年3月29日 - 1953年12月23日)はソビエト連邦の政治家。グルジア人。
[編集] プロフィール
1899年にスフミ近郊のミヘウリにユダヤ系小作農パベル・カフカハエヴィッチ・ベリヤの息子として生まれる。ミヘウリの中等実業学校を出た後、1917年3月にボリシェヴィキ党(ソ連共産党の前身)に入党したとされているが、これについてはのちに捏造したもので実際にはロシア革命後の1919年の入党ではないかとも言われている。
1920年(1921年とも)にレーニンの創設した秘密警察のチェカに入り、グルジアやアゼルバイジャンで反革命分子の抹殺に辣腕をふるう。1922年にはチェカが改名された GPU のグルジア支部長代理に就任し、1926年には正式に支部長となった。またこの年に同じグルジアの出身であるスターリンに初めて会見して目にかけられるようになり、1931年にはグルジア共産党第一書記。さらに1934年にはソ連共産党中央委員に就任して中央政治に転じた。
大粛清の最中、スターリンは粛清の実行者であるはずの内務人民委員部(1934年 GPU はここに統合された)の長官であるニコライ・エジョフを遠ざけるようになり、かわってベリヤが1938年8月22日にエジョフの内務人民委員代理に任命され、徐々にエジョフにとってかわって粛清の指揮をとるようになる。11月25日には正式にエジョフが内務人民委員を解任されてベリヤが内務人民委員となり、エジョフやその配下の機関員たちを粛清してスターリン大粛清の総仕上げにあたった。
1941年には人民委員会副議長に就任し、独ソ戦中もこの職にあり、クリミア・タタール人その他の対独協力の嫌疑をかけられた少数民族の集団追放を強行。また彼は悪名高いカティンの森事件の首謀者であり、シベリア抑留など外国人捕虜を收容する収容所を管轄する最高責任者でもあった。対独戦終結後の1945年7月9日にソ連邦元帥の階級を得る。その後もスターリンのもとで強制収容所の維持や原爆の開発にかかわった。さらに東欧系の警察組織もベリヤの支配下に組み込まれ、ベリヤの警察権力は絶頂を迎えた。
1953年のスターリン死去後は集団指導体制に移り、首相マレンコフに次ぐ第一副首相兼内相として、ソ連の指導的地位につく(なお、一部の歴史家はベリヤがフルシチョフらと共謀し、ヨシフ・スターリンを毒殺した主なメンバーの1人だとの見解を示している)。スターリン死後は医師団陰謀事件の囚人を釈放したり、統一ドイツを主張するなど野心的な政策を実施した。しかし、マレンコフ、フルシチョフ、モロトフ等と対立し、1953年6月ジューコフ元帥の指揮する部隊により、国家反逆罪容疑で逮捕される。裁判の結果、死刑判決を受け、同年12月に銃殺された。
[編集] 家族
息子のセルゴ・ベリアは科学者であり、「わが父ラヴレンティ・ベリヤ」(未邦訳)と私記を著した。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | ソビエト連邦の政治家 | 1899年生 | 1953年没