ラス・ビハリ・ボース
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ラス・ビハリ・ボース (Rash Behari Bose, 1886年3月15日-1945年1月21日)はインドの独立運動家で日本のカレーの父と言われる。同じインドの独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースと区別する意味から「中村屋のボース」と呼ばれることもある。
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[編集] プロフィール
[編集] 独立運動家
1886年に大英帝国(イギリスの当時の呼称)の植民地であったインド、ベンガルの王族の家に生まれたボースは、当時の多くの上流階級の子弟がそうしたようにインド国民会議に所属し、大英帝国からの独立運動に身を投じ、インド総督に対するテロ未遂事件などを起こす。
その後、ラホール蜂起の首謀者とされ1914年に日本に亡命したが、当時日英同盟を締結するなど大英帝国と友好関係にあった日本政府は、ボースに対し国外退去を通告する。
これに怒った頭山満や犬養毅、内田良平などの国粋主義者は、かねてから知り合いであった新宿の菓子店、中村屋の創業者で、孫文らとも交流があった実業家、相馬愛蔵にボースをかくまうよう依頼。その後4ヶ月間ボースは中村屋のアトリエにかくまわれることになる。やがて頭山らの働きかけもあり、1915年、日本政府はボースに対して日本国内でインド独立運動を行うことを許可する。その後、ボースはかねてから恋仲にあった相馬の娘、俊子と結婚する。
[編集] カレーの父
その後、1927年に中村屋が喫茶部を新設する際、本場インドのものとは全く異なる洋風をアレンジしたカレーが幅を利かせていた日本の状況に憤慨したボースが、相馬夫妻への恩返しとして本場インドカレーのレシピを中村屋に提供。併せて原材料の調達と選別も自らの手で行った。これが日本で初めての本格的なインドカレー『純インド式カリー』となり、今に至るまで中村屋の名物メニューとなっている。また、ボースは日本で同じく独立運動に身を投じていたA.M.ナイルとともに活動したが、ナイルも戦後、本格的インドカレーが売りもののインド料理店『ナイルレストラン』を銀座に開いている。
[編集] 客死
日本政府の支援を受けてイギリスからの独立運動を行う中、1941年に日本はイギリスやアメリカとの戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入する。その後、1943年には、日本の支援を受けて独立運動をしていたスバス・チャンドラ・ボースらと共に日本占領下のシンガポールへ向かい、自由インド仮政府設立を宣言、同時にインド国民軍の指導者の一人となる。
しかし、インド独立の夢が現実となる日を見ることなく、1945年に日本で客死した。同年6月には俊子との間に生まれた長男・正秀も沖縄戦で日本軍人として戦死する。ボースの死後、日本政府はその功績をたたえて勲二等旭日重光章を授与する。