ペニシリン
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ペニシリン(penicillin)とは1929年、アレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)によって発見された、世界初の抗生物質である。
目次 |
[編集] ペニシリンのあらまし
抗菌剤の分類上ではβ-ラクタム系抗生物質に分類される。
発見後、医療用として実用化されるまでには10年以上の歳月を要したが、1942年にベンジルペニシリン(ペニシリンG、PCG)が単離されて実用化され、第二次世界大戦中に多くの負傷兵や戦傷者を感染症から救った。以降、種々の誘導体(ペニシリン系抗生物質)が開発され、医療現場に提供されてきた。
1980年代以降は主力抗菌剤の座をセファロスポリン系抗生物質やニューキノロンに明け渡した感があるが、ペニシリンの発見はこれらの抗菌剤が開発される礎を築いたものであり、しばしば「20世紀における偉大な発見」の一つとして数え上げられる。
[編集] 歴史
1929年、フレミングがブドウ球菌の培養実験中にコンタミネーションにより生じたアオカビ(Penicillium notatum)のコロニーの周囲に阻止円(ブドウ球菌の生育が阻止される領域)が生じる現象を発見したことに端を発する。フレミングはアオカビが産生する物質が細菌を溶かしたものと考え(実際には、この現象は溶菌ではなく細菌の発育阻止によるものであった)、アオカビを液体培養した後のろ液にも同じ活性があることを突き止め、彼自身は単離しなかったその物質を、アオカビの学名にちなんでペニシリンと名付けた。
その後、1940年にH.W.フローリー(Howard Walter Florey)とE.B. チェイン(E.B. Chain)がペニシリンの単離に成功したが、1つと思われたペニシリンは、ペニシリンG、ペニシリンN等の混合物であった。翌1941年には実際臨床でその抗菌剤としての効果を確認した。フレミングの「ペニシリンの発見」とフローリー等の「ペニシリンの再発見」とそれに続くペニシリンGの実用化は感染症の臨床治療を一変させ、その功績によりフレミング、フローリー、チェインには1945年にノーベル医学・生理学賞が授与された。
[編集] 性質
ペニシリンはβ-ラクタム系抗生物質であり、真正細菌の細胞壁の主要成分であるペプチドグリカンを合成する酵素(ペプチドグリカン合成酵素、ペニシリン結合タンパク、PBP)と結合し、その活性を阻害する。この結果ペニシリンが作用した細菌はペプチドグリカンが作れなくなり、その分裂に伴って細胞壁は薄くなり、増殖が抑制される(静菌作用)。また細菌は細胞質の浸透圧が動物の体液よりも一般に高いため、ペニシリンの作用によって細胞壁が薄くなり損なわれた細菌細胞では外液との浸透圧の差から細胞内に外液が流入し、最終的には溶菌を起こして死滅する(殺菌作用)
ペニシリンは、細菌だけが持つ細胞壁の合成を標的として特異的に阻害する薬剤である。細胞壁は、細菌の生存に必須な構造であるがヒトを含めた真核生物には存在しないため、ペニシリンは細菌に対する選択毒性が高く、ヒトに対する毒性は低い。この点においてペニシリンは、すでに発見・実用化されていた色素剤やサルファ剤に比べてはるかに優れており、このため実用化後には大きく普及し、他の多数の抗生物質開発のきっかけになった。
初期のペニシリンはブドウ球菌を代表とするグラム陽性菌、グラム陰性球菌に対しては強い抗菌作用を示すが、大腸菌を代表とするグラム陰性桿菌に対しては抗菌作用が弱いという性質を持っていた。特に、グラム陰性桿菌の中でも薬剤に対する自然抵抗性が高い緑膿菌には無効であった。
ペニシリン開発の歴史は弱作用菌や耐性菌との戦いの歴史でもある。作用が弱いグラム陰性桿菌に対する作用増強を目的としてペニシリン骨格を種々の化学修飾あるいは置換基の化学変換により、弱作用菌への抗菌力の増強が試みられ、多くのペニシリン系抗生物質が開発された。
またフレミングが発見したペニシリンは、酸性で分解されやすく経口投与では胃液で分解されて無効になるため、当初は注射剤として用いられた。しかし、経口投与可能なペニシリン系抗生物質も、初期の段階から開発されている。
[編集] 問題点
[編集] 耐性菌の出現
ペニシリンが用いられるようになると、ペニシリンに対する耐性を新たに獲得したペニシリン耐性菌が出現した。ペニシリン耐性菌はペニシリンが実用化された数年後には臨床現場から分離されたが、抗生物質の無秩序な濫用が引き金となって拡大し、1960年代にはペニシリン耐性菌の問題が顕現化して医療上の大きな問題になった。この当時出現した初期のペニシリン耐性菌は、ペニシリナーゼやβ-ラクタマーゼなどの薬剤分解酵素の遺伝子を突然変異、あるいはファージやプラスミドを介して獲得したものであった。そこで、これらの分解酵素による分解を受けないペニシリン系抗生物質であるメチシリンが開発された。また、ペニシリンとクラブラン酸などペニシリン分解酵素阻害剤を合剤とすることで、耐性菌の問題を解決してきた。
しかし、メチシリンが実用化された数年後にはメチシリンに耐性を持つメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)が出現した。MRSAは、PBPの変異型であるPBP2'を獲得した黄色ブドウ球菌である。MRSAのPBP2'はβラクタム系抗生物質との結合能が弱く阻害を受けなくなっているため、メチシリンをはじめとする全てのβラクタム系抗生物質に対する多剤耐性を獲得している。
[編集] ペニシリンアレルギー
ペニシリンはアレルゲンとしての一面を持ちアレルギー反応を引き起こしやすい。そして数万人に一人程度の確率でアナフィラキシー・ショックを引き起こすことがあり、ペニシリンが引き起こす重篤なアレルギー症状は「ペニシリン・ショック」と呼ばれた。
[編集] 生合成
前駆体であるACVトリペプチド (δ-(L-α-amino-adipate)-L-cysteine-D-valine)は単量体であるL-アミノ酸から酵素ACV-synthetase (EC 6.3.2.26)によりリボゾームを介することなく細菌やカビの細胞内で生合成される。 ACVトリペプチドは酵素 isopenicillin-N-synthetase (EC 1.21.3.1)によりイソペニシリンN(isopenicillin N)へと環化し、β-ラクタム環が形成される。 イソペニシリンNは酵素 N-acyltransferase (EC 2.3.1.164) により側鎖が交換されるが、関与するアシル-CoAのカルボン酸残基に応じて、種々の誘導体が得られる。またセファロスポリン系の抗生物質の生合成もイソペニシリンNを出発物質としている。 この様に、N-acyltransferaseが比較的基質特異性が低い酵素である為、Penicillium sp.においてもペニシリンNから、もともと細胞内に存在するアシル-CoAと交換することで、ペニシリンG、ペニシリンKなど多くの誘導体が産生される。
[編集] ペニシリン系抗生物質
ペニシリンは、狭義にはフレミングが見つけたアオカビ培養液から精製したもの(天然ペニシリン)と、培地に原料を人為的に添加してアオカビに合成させた後に精製したもの(生合成ペニシリン)を指し、これらにはペニシリンG、ペニシリンVなどの名称が付けられている。一方、これらを原料に化学修飾を施したもの(半合成ペニシリン)や、すべて化学的に合成したもの(合成ペニシリン)も開発されている。これらはいずれも、その活性中心であるβラクタム環を含んだ、ペナム骨格を有する抗生物質であり、ペニシリン系抗生物質、あるいはペナム系抗生物質と総称される。広義には、これらのペニシリン系抗生物質のことをすべてペニシリンと呼ぶことがある。
[編集] 天然ペニシリン
フレミングが発見した、Penicillium noctumの培養液に含まれていたペニシリンを天然ペニシリンと呼ぶ。フローリーとチェインがその精製に成功した際、これらは複数のペニシリン系化合物の混合物であることが判明した。いずれもペナム環の3位にカルボン酸基がついた、ペニシラン酸化合物である。6位側鎖の違いから、ペニシリン G、X、F、Kなどが発見されたが、そのうち収量、活性、安定性の面でペニシリン G(ベンジルペニシリン)が最も抗菌剤として優れていた。P. noctumのペニシリン産生能はそれほど高くなかったが、その後より生産量の高いP. chrysogenumが発見され、さらに品種改良と発酵培養技術の改良によって収量が改善された。
[編集] 生合成ペニシリン
天然ペニシリンを産生するアオカビの培養液に別の原料を人為的に添加し、生合成的特性を利用して誘導体化した一群のペニシリンを生合成ペニシリンと呼ぶ。すなわち、培地中に目的のカルボン酸を大量に存在させ、他の栄養素や培養条件を調整することで積極的に同カルボン酸を取り込ませて目的のペニシリン誘導体を醗酵させるのである。この方法で開発されたペニシリンとしてはフェノキシメチルペニシリン(ペニシリン V)、ペニシリン N、ペニシリン Oなどが挙げられる。
[編集] 半合成ペニシリン
天然ペニシリンや生合成ペニシリンを原料にして、化学的な修飾を施して開発されたものを半合成ペニシリンと呼ぶ。その多くは、醗酵で得られたペニシリンを酵素的に6位側鎖を切断し、6-アミノペニシラン酸とし、続いて化学的に新しい6位側鎖を導入する方法で誘導体化された。この方法は生合成ペニシリンに比べ誘導体化する際の制約が少ない為、多種多様のペニシリン誘導体を合成することが可能になった。
[編集] 合成ペニシリン
ペニシリン系化合物が相次いで開発されていた1940-50年代前半には、その構造の複雑さからペニシリンを化学的に全合成することは不可能だと考えられていたが、1957年、ジョン・シーハンがペニシリンVの全合成に成功した。これによって化学合成法が確立されると、それまで培養を必須としていたペニシリンの生産技術が変革し、従来の天然、生合成ペニシリンが化学合成されるようになると共に、新たに化学合成による新しいペニシリン系化合物が開発された。これらを合成ペニシリンと呼ぶ。
[編集] 主なペニシリン系抗生物質
ペニシリン系抗生物質は、上記した開発および生産の方法の違いによる分類の他、耐酸性と、治療対象になる微生物の範囲による分類が汎用的に用いられる。天然ペニシリンが酸によって分解され経口投与が不能であった欠点を補うため耐酸性ペニシリンが開発された。初期のペニシリンはグラム陽性菌および陰性球菌に対してのみ有効で、またペニシリン耐性菌が獲得したペニシリナーゼ(ペニシリン分解酵素)によって不活化されるものであったが、ペニシリナーゼ抵抗性ペニシリン、グラム陰性桿菌にも有効な広域ペニシリン、の順に、抗菌スペクトルを広げる方向で開発が進んだ。
以下に代表的なペニシリン系抗生物質を示す(略号は抗微生物薬略語:日本化学療法学会制定)
[編集] 天然ペニシリン
グラム陽性球菌、グラム陽性桿菌とグラム陰性球菌に有効。グラム陰性桿菌およびペニシリナーゼ産生耐性菌には無効。酸による分解を受けるため、経口投与不能で注射剤として用いられた。抗菌スペクトルの面から、下記の耐酸性ペニシリンと併せて第一世代ペニシリンと呼ばれることがある。
- ベンジルペニシリン(ペニシリンG, benzylpenicillin:PCG)- 天然ペニシリン。Penicillium notatum産生物中、最も活性が大。
[編集] 耐酸性ペニシリン
経口投与を可能にするため、耐酸性にした生合成ペニシリン、半合成ペニシリン。抗菌スペクトルは天然ペニシリンと同じであり、それと併せて第一世代ペニシリンと呼ばれることがある。
- フェノキシメチルペニシリン(phenoxymethylpenicillin:Penicillin V)- 初めて開発された、耐酸性の生合成ペニシリン。ジョン・シーハンによって全合成方法が開発された最初のペニシリン系化合物でもある。
[編集] ペニシリナーゼ抵抗性ペニシリン
多くは半合成ペニシリンであり、ペニシリナーゼおよびβラクタマーゼによる分解を受けにくく、これらの耐性菌に対して有効。ただしMRSAには無効。主にグラム陽性菌用。
- メチシリン(methicillin:DMPPC) - 最初のペニシリナーゼ抵抗性ペニシリン。安定性の問題から2005年現在日本ではほとんど用いられていない。注射のみ。
- オキサシリン(oxacillin:MPIPC) - メチシリン類似の抗菌・耐性菌活性。メチシリンの代わりにMRSA検査用に繁用される。経口、注射。
- クロキサシリン(cloxacillin:MCIPC)
- ジクロキサシリン(Dicloxacillin:MDIPC) - 経口、注射
[編集] 広域ペニシリン
抗菌スペクトルを拡大してグラム陰性菌にも有効になったもの。初期に開発されたアンピシリンなどは、グラム陰性菌の中でも特に薬剤への自然抵抗性が強い緑膿菌には無効であったが、後に緑膿菌にも有効なカルベニシリンが開発された。
[編集] 緑膿菌に無効
- アンピシリン(ampicillin:ABPC) - 最初の広域ペニシリン、経口、注射。
- アモキシシリン(amoxicillin:AMPC))- 経口ペニシリン
- バカンピシリン(bacampicillin:BAPC)- 経口ペニシリン
- タランピシリン(talampicillin:TAPC)- 経口ペニシリン
[編集] 緑膿菌に有効
- カルベニシリン(carbenicillin)- 緑膿菌にも有効になった最初の広域ペニシリン。
- チカルシリン(ticarcillin:TIPC)
- メズロシリン(mezlocillin)
- テモシリン(temocillin)
- アパラシリン(apalcillin)
- ピペラシリン(piperacillin:PIPC)
[編集] その他
- スルタミシリン(sultamicillin:SBTPC)- 広域ペニシリンであるアンピシリンと、βラクタマーゼ阻害剤であるスルバクタムを化学結合させたもの。βラクタマーゼ抵抗性の広域ペニシリン。尚、注射剤は、スルバクタムを化学結合させずにアンピシリンにスルバクタムを配合させている。
[編集] 未分類
- アゾシリン(azlocillin)
- ピブメシリナム(pivmecillinam:PMPC)
[編集] 合剤
広域ペニシリンの抗菌力、抗菌スペクトラムを維持しつつ、βラクタマーゼ産生菌にも作用させるために、βラクタマーゼ阻害薬とペニシリン系抗生物質を配合した合剤が販売されており、広く使用されている。
- スルバクタム・アンピシリン(sulbactam/ampicillin:SBT/ABPC)- 注射剤。主に呼吸器感染症、周術期感染阻止に用いられる。一部嫌気性菌にも有効。現在(2006年)日本で一番使用されている注射用ペニシリン製剤である。
- タゾバクタム・ピペラシリン(tazobactam/piperacillin:TAZ/PIPC)- 注射剤。グラム陰性菌に強い。
- アモキシシリン・クラブラン酸(amoxicillin/clavulanic acid:AMPC/CVA)- 経口剤。
- チカルシリン・クラブラン酸(ticarcillin/clavulanic acid:TIPC/CVA)-日本では発売中止。(明治製菓-GSK)
[編集] 関連項目
- 抗菌剤
- 抗生物質
- β-ラクタム系抗生物質
- セファロスポリン
- 抗菌剤の年表
- 耐性菌