ブガッティ
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ブガッティ(Bugatti Automobiles S.A.S)はフランスの自動車メーカー。現在のブガッティ社はフォルクスワーゲングループが商標権を買い取り新しく設立した会社であり、Bugatti Automobili SpA(現パガーニ)とは資本的関係はない。
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[編集] 歴史
[編集] 伝説のスポーツカーメーカー
ブガッティ社の創始者、エットーレ・ブガッティ(Ettore Arco Isidoro Bugatti) は1881年、イタリアのブレシアの芸術家の一族の家に生まれた。彼は若くして多くの自動車のエンジンの設計に携わり、ついに自ら自動車の設計を始めるようになる。こうして生まれた数々の車は彼の名声をさらに高めることになった。さらにエットーレはイタリアを飛び出し、当時ドイツ領であった(現フランス領の)アルザス地方のモルスハイムに移る。しばしばドイツの自動車メーカーと表記されるのは誤記ではなく、このためである。彼は自動車の革新者として多くのエンジンを設計し、レースの世界ではフランス・グランプリでの勝利を皮切りに、第1回、2回、3回モナコグランプリでの3年連続優勝、タルガ・フローリオでの優勝など輝かしい成績を残した。その後は機関車、飛行機の設計に乗り出したが、商業的に成功しなかった。そして1939年、エットーレの息子、ジャン・ブガッティがレースカーのテスト中に事故を起こし死亡したのをきっかけに、会社の業績は下を向くようになる。さらに第二次世界大戦でモルスハイムの工場は破壊され、そして1947年に、エットーレ・ブガッティが他界する。その後はLevallois工場で飛行機用エンジンを細々と生産しイスパノ・スイザ社に納入していたが、1968年にスネクマ社(現・サフラン )に併合された。現在はサフラン社傘下のメッサー・ブガッティ社として飛行機のブレーキ・ホイールを作成している。
[編集] 110年目の復活
こうして自動車メーカーとしては幕を閉じたブガッティであったが1987年、イタリア人実業家ロマーノ・アルティオーリは突如としてブガッティの商標を手に入れ、ブガッティ・アウトモビリSpA(Bugatti Automobili SpA)を設立。場所はイタリアのモデナ、すなわちフェラーリや、マセラティ、ランボルギーニといったライバルたちの本拠、エミリア=ロマーニャ州モデナ県であった。1989年、ついにその復活プランが発表され、1991年にはBugatti EB110 GTを発表。93年にはEB112とよばれるセダンのプロトタイプも発表。当時日本輸入元に選ばれたのはニコル・レーシング・ジャパン。
EB110は3500ccV型12気筒エンジンにターボを4基搭載するというスーパーカーであった。当初マルチェロ・ガンディーニによるデザインでプロトタイプが製作されていたが、発表された生産型は自社によるデザインであった。またEB112はジウジアーロによるデザイン。ジウジアーロは後にEB18/3シロンのデザインも行っている。
アルティオーリは1993年にはゼネラルモータースからロータスも買収しているが、経営は行き詰まり1995年に倒産した。倒産に至るまでに他メーカーからの陰湿な妨害を受けたことが一因とも言われている。そのため結局EB110の生産は僅か154台に留まった。その後ブガッティ社の技術者たちはパガーニ社を設立。この苦い失敗を生かしたパガーニ・ゾンダは成功を収めることとなる。
[編集] 1000馬力、最高速度400km/h
その後、1998年にフォルクスワーゲングループが商標権を取得してBugatti Automobiles S.A.Sを設立。そして、マルチブランド戦略によるグループ再興を掲げるフェルディナント・ピエヒの大号令のもと、ブガッティ・ヴェイロンの製作が開始された。彼は"最大出力1000馬力、最高速度400km/h"という目標を掲げ、決してこれを曲げようとはしなかった。そのため、試験車両の半数以上はクラッシュし「永遠に完成しないモノの例え」とまで揶揄されたが2005年についに完成した。ワールド・プレミアは東京モーターショーである。日本での総輸入元は再びニコル・レーシング・ジャパンとなった。
[編集] コレクション
フランスのミュルーズにある国立自動車博物館には、世界最大のブガッティのコレクションがある。