パン (ギリシア神話)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パン(パーン、ギリシア語 Παν, 属格 Πανος)は、ギリシア神話の神の一種である。アイギパン (Αιγιπαν 「山羊のパン」) とも呼ばれ、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。日本語では牧羊神、牧神とも呼ばれる。
パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ(→獣人)。何者がパンの親かは無数の伝承があり、どれが正しい、というものは存在しない。父親はゼウスともヘルメスともいわれる。母親はニンフであるといわれている。実際には古形「パオン(Παων)」(「牧夫」の意、現代英語のpastureと同じ接頭辞)から名付けられたものだが、ギリシャ語の「パン」(「全ての」の意)としばしば誤って同一視された結果、パンの神は性格と名前が誘惑的なものと思われるようになった。さまざまな点でプロトゴヌスやファネス(エロス)(en:Protogonus/en:Phanes) と同じものと考えられる。また「全て」という意味からアレクサンドレイアの神話学者、そしてストア派の哲学者たちによって「宇宙全ての神」であると解釈されるようにもなった。
- 尚、以前の記事では次の記述があった↓
- パンがテュポーンに襲われた際に上半身が山羊、下半身が魚の姿になって逃げたエピソードは有名であるが、この姿は低きは海底から高きは山の頂上まで(山羊は高山動物であるため)世界のあらゆるところに到達できるとされ、「全て」を意味する接頭語Pan(汎)の語源となったともいわれている。
恐らく、言語上の誤解はホメロス風諸神賛歌のなかの『パン賛歌』(第19番)から始まったのだろう。『賛歌』によれば、パンはドリュオプスの娘(「娘」の部分をニンフと解する説もある)とヘルメスの間に生まれたが、山羊の脚、頭に二本の角を生やすという奇妙な姿をしていたため、母親は幼いパンを置き去りにして逃げた。ヘルメスはパンを野兎の皮でくるんで神々のもとへ運ぶと神々はみな喜んだ。しかし、なかでも特に喜んだのはディオニュソスだった。そして「全ての神々を喜ばす」として、そこから名前を得たのだという。
パンには、少なくとも原インド・ヨーロッパ語族時代においてはもう一つの名前があり、ローマ神話でのファウヌス(下記)であると考えられる。あるいは印欧比較神話学的な観点からはインドの牧羊神プーシャン(Pūṣán)と語源が共通しているという説もある。どちらにしても、パンの血統をめぐる説がいくつもあることから、太古の神話的時代に遡る神であるに違いない。パンがアルテミスに猟犬を与え、アポロンに予言の秘密を教えたというのが本当なら、他の自然の精霊と同じく、パンはオリュンポス十二神よりも古いものにみえる。
パンはもともとアルカディアの神であって、パンの主な崇拝者もアルカディア人だった。アルカディアはギリシア人の居住地であったが、この地のギリシア人はポリスを形成せず、より古い時代の村落共同体的な牧民の生活を送っていたので、オリュンポスの神域がパンのパトロンになった時、ポリス生活を送る先進地帯のギリシア人は彼らのことを蔑視していた。アルカディアの猟師たちは狩りに失敗した時、パンの像をむち打ったものである (テオクリトス vii. 107)。
パンは人気のない所で、突然、混乱と恐怖をもたらすことがあった(「パニック(Panic)」)(panikon deima)。
復興異教主義(Neopaganism)においてパンは「角を持つ神」の典型として、神の元型の一つだった(→ケルヌンノス)。
パンのトレードマークである笛に関わる有名な伝説がある。シュリンクス(Συριγχ)は美しいニンフだった。サテュロス他の森に住むものに愛されていたが、彼女は彼らを皆軽蔑していた。ある日狩りから彼女が帰ってくると、パンに会った。彼女はパンのお世辞を聞かずに逃げ出したが、パンは川の土手まで追いかけて行って彼女を捕えた。水中のニンフに助けを求める余裕しかなく、パンが手を触れた時、彼女は川辺の葦になった。風が葦を通り抜け、悲しげな旋律を鳴らした。パンはニンフを讃え葦をいくたりか切り取ると楽器を作り「パンの笛」(パンパイプ、パンフルート、en:syrinx)と呼んだ。
- (以前の版では、シュリンクスは女神アルテミスに純潔を誓ったのでパンを拒んだとあった。)
エコー(山彦のエコーである)は歌と踊りの上手なニンフであり、全ての男の愛情を軽蔑していた。好色な神であるパンはこれに腹をたて、信者に彼女を殺させた。エコーはバラバラにされ、世界中に散らばった。大地の女神ガイアがエコーの肉片を受け取り、今もエコーの声は他の者が話した最後の数語を繰り返している。他のバージョンでは、はじめエコーとパンの間にはイアムベー(’Ιαμβη)という子供がいた。
パンはピテュス(Πιτυς)というニンフにも惚れた。ピテュスは彼から逃げようと松の木になった。
山羊は性的な多産のシンボルであったが、パンも性豪として有名であり、しばしばファルスを屹立させた姿で描かれる。ギリシア人はパンがその魅力により、処女やダフニスのような羊飼いを誘惑するものと信じていた。シュリンクスとピテュスでしくじりはしたが、その後、ディオニュソスの女性崇拝者であるマイナデスをたらし込むことには成功し、乱痴気騒ぎの中で一人残らずものにした。これを達成するため、パンは時に分身してパン一族(Panes)となった(→サテュロス)。
ある時、パンは竪琴の神アポロンと音楽の技を競うことになった。トモロス(en:Tmolus、山の神。オムパレーOmphaleの夫)が審査員となった。パンは笛を吹き、田舎じみた旋律はパン自身とたまたま居合わせた追従者ミダスを大変満足させた。次いでアポロンが弦を奏でると、トモロスは一聴、アポロンに軍配を上げたのである。ミダス以外の誰もが同意した。彼は異議を申し立て不公正じゃないかと糾した。アポロンはこのような下劣な耳にわずらわされないよう、彼の耳をロバのそれに変えてしまった(→マルシュアス)。
キリスト教文学や絵画に描かれるインキュバス(男性型夢魔)の悪魔風イメージ、サタンの角と割れた蹄のイメージは、大変に性的であるパンのイメージから取ったものであろう。
ギリシアの歴史家プルタルコスが『神託の堕落("The Obsolescence of Oracles" (『モラリア』5:17))』に書いたことを信じるならば、パンはギリシアの神々の中で唯一死んだ。ティベリウスの御代にパンの死というニュースがタムス(Thamus)の元に届いた。彼はパクソイ諸島島経由でイタリアに向かう船の船員だったのだが、海上で神託を聞いた。「タムス、そこにおるか? Palodesに着いたなら、忘れず『パンの大神は死したり』と宣告するのじゃ」と。その知らせは岸辺に不満と悲嘆をもたらした。
ロバート・グレイヴズはThe Greek Mythsの中でタムスは明らかにThamus Pan-megas Tethnece「全てにして偉大なるタンムズは死したり」を聞き誤ったのであると示唆している。実際、プルタルコスの後一世紀たった頃、地理家のパウサニアスがギリシアを旅した時、パンを祀る祠や洞、聖なる山を尚もしばしば見た。
死が宣言されたにも関わらず、パンは今日も復興異教主義やウイッカ(en:Wicca)の間で男性の強さと性的能力の源泉として崇拝されている。
パンはケネス・グレアムの児童文学作品『たのしい川辺』(The Wind in the Willows)とトム・ロビンズの小説『香水ジルバ』(Jitterbug Perfume)にも登場してくる。
[編集] ローマ神話: ファウヌス
ローマ神話でパンに対応するのはFaunus(ファウヌス)である。ファウヌスはニンフのマリカ(Marīca)(時にファウヌスの母ともいわれる)との間にボナ・デア(Bona Dea. 本名は女神ファウナFaunaまたはファウラFaulaであるという。ファウヌスの女性側面)及びラティヌス(Latīnus)をもうけた父親として知られている。
en:Justin Martyrはファウヌスをルペルクス(Lupercus「狼を遠ざけるもの」)即ち家畜の護衛者と同定しているが、この説は古典的典拠を欠く。
神話においては、ファウヌスはエウアンドロスがアルカディアから来たとき、ラティウム地方(Latium)の王で、ピクス王(Pīcus)とカネンス(Canēns)の子だった。死後にファトゥウス(Fātuus)神として崇拝された。儀式は神聖な森の中で行われ、現在のティヴォリ(Tivoli)、エトルリア時代以来ティブール(Tibur)、Tiburtine Sibylの座として知られていた地のはずれにその森はあった。ファウヌスは狼の皮と花冠、ゴブレットと共にあった。
彼の祭りはルペルカリア祭(Lupercālia)と呼ばれ、神殿が建立された日を記念して2月15日に行われた。司祭ルペルクスたち(Luperci)は山羊の皮を着、見物人を山羊皮のベルトで打った。ファウヌスを讃えるもう一つの祭りがあり、ファウナリア(Faunalia)という。12月5日に行われた。
en:Erotic art in Pompeiiも参照のこと。
[編集] 関連項目
- ギリシア神話
- ニンフ
- ローマ神話
- シルヴァヌス (en:Silvanus (mythology))
- サテュロス パンの仲間である精霊。しばしばパンと混淆される。
- エロス
- 夢魔
- パンパイプ
- 異教主義 (en:Paganism)
- 復興異教主義 (en:Neopaganism)
- パニック
- パノラマ
- 『パンの大神』 アーサー・マッケンの怪奇小説
- 『牧神の午後への前奏曲』 ステファヌ・マラルメの詩に基づいたクロード・ドビュッシーの管弦楽曲
- 『ダフニスとクロエ』 ロンゴス作のギリシアの古典文学作品、それに取材したモーリス・ラヴェルのバレエ音楽
- 『異教徒の交響曲』 グランヴィル・バントック(1868-1946)の作品。スケルツォでファウヌスとサテュロスが描かれる。