ナチス・ドイツのフランス侵攻
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ナチス・ドイツのフランス侵攻(-しんこう)とは、1940年5月第二次世界大戦中のドイツ軍と連合軍とのベネルクス三国・フランス北部での戦闘であり、電撃戦の最も成功した例とされる。西方電撃戦とも呼ばれる。ドイツ側の作戦名は黄色作戦(Fall Gelb、ファル・ゲルブ)。
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[編集] 戦いの背景
ヒトラーは、ポーランド侵攻の直後に西部戦線での戦闘を予定していたが、欧州の冬の悪天候では空軍の支援がおぼつかず、翌年に延期された。一向に戦闘が始まらないこの戦争を、アメリカ人は「奇妙な戦争」、ドイツ人は「座り込み戦争」と称した。
作戦計画はシュリーフェン・プランに沿ったものであったが、ベルギーでの飛行機墜落事故で作戦計画が連合軍に漏れてしまい、第一次世界大戦中に西部戦線で悲惨な塹壕戦に従軍し、シュリーフェン・プランに内心不満を抱いていたヒトラーの後押しで、マンシュタインの作戦計画が採用された。
マンシュタイン計画に基づいて、マジノ線に対応するC軍集団、ベルギー・オランダに侵攻する歩兵主力のB軍集団と、森林地帯を抜ける装甲師団主力のA軍集団に分け、1940年5月10日一斉に越境した。これに対し、フランス・ベルギー・イギリス大陸派遣軍は、ベルギーのディール川沿いに防衛線を敷いた。戦力上は連合軍の方が勝っていたが、機甲師団がほとんど無いなど防戦思考で、戦術面で大きく劣っていた。
[編集] 戦いの経過
[編集] 空挺作戦による要塞制圧
B軍集団の侵攻ルートには、ベルギー・オランダの要塞が各所に点在しており、装甲師団の多く(10個師団中、7個師団)は A軍集団に配置されたため、空挺部隊による制圧が行われた。5月10日、ベルギーのエバン・エマール要塞にグライダーで工兵が降下し、各トーチカに爆薬を貼り付け、破壊活動を行った(翌日歩兵部隊が到着し制圧)。その後もオランダの各要塞に落下傘降下を行い、ロッテルダムに戦略爆撃を行うなどし、オランダは戦闘能力を失い、14日降伏した。
[編集] A軍集団の進撃
森林地帯を抜けて、ムーズ川の対岸にいたのは、予想通り弱体なフランス歩兵部隊だった。5月13日、3個装甲師団がスダンで渡河作戦を開始、激しい爆撃の支援の下橋頭堡を確保、翌日渡河に成功した。以後、ムーズ川各所で、残りの装甲師団も渡河に成功し、遮る部隊のいないフランス北部をイギリス海峡に向けて突進した。
[編集] 連合軍の総退却
5月16日、A軍集団の突破を知らされた連合軍は総退却を開始。しかし、快速の戦車で進撃してくるA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡へと追い詰められていく。
[編集] アラスの戦い
5月19日、ついにドイツA軍集団の先頭を行く第二装甲師団がドーバー海峡に達し連合軍はフランス本土から切り離されてしまった。しかし、現実にはハインツ・グデーリアンの装甲軍団は突出しすぎて後続の歩兵各師団とは離れてしまっており、連合軍の背後を完全に遮断するには至っていなかった。そのため連合軍のフランス本土への退却は可能なように思われた。英国陸軍参謀総長アイアンサイドは、フランス軍司令部がA軍集団への反撃とフランス本土との連絡線の確保のための行動を何も起こさないことに業を煮やし、自ら作戦に介入することを決意した。実際には、連合軍はドイツB軍集団による北東方向からの激しい圧迫を受けており、反対向きの南方面に転進させる兵力の余裕はなかった。しかし、アイアンサイドはBEF司令官ゴートと協議し、フランス第一軍集団司令官ビョットを説得して、英仏共同による南方面への反撃を行うことで同意に至った。21日、予備兵力として温存されていた英国大陸派遣軍二個師団によるアラス方面への反撃が開始された。しかし、事前の連絡不徹底と英仏両軍の間にあった不和により、同時に行われるはずであったフランス二個師団によるカンブレー方面への攻撃は、翌22日に延期されてしまった。また、これも事前確認の不徹底により、二個師団によって全力で行われるはずであったアラス方面への英軍による反撃も、実際には戦車二個大隊と歩兵二個大隊にフランス軍の戦車が若干加わっただけの兵力で行われた。だが、この反撃はタイミングがよかったため予想以上の効果をもたらした。無線設備をほとんど持たず、ドイツ軍に制空権を掌握され偵察もできなかった英軍にとってはまさに五里夢中の作戦行動であったが、ちょうどアラスを迂回して突進中であったロンメルの第七装甲師団の横っ腹に突っ込む形となったのであった。当時、第七装甲師団の戦車連隊は二つとも遠く前進してしまっており、アラスの南側を狙撃兵連隊と砲兵隊が進撃中であったが、英軍の戦車二個大隊はそこに襲撃したのであった。本来、第七装甲師団の北側を防御するはずだった第五装甲師団は進撃が遅れており、第七装甲師団の南側を併走していたSS師団「ドクロ」は戦闘経験がなく、英軍戦車来襲を目にするや戦わずして逃亡してしまった。第七装甲師団は直ちに対戦車陣地を構築して向かい打ったが、師団長のロンメルが不在であったためと、英軍のマークII・マチルダ戦車の分厚い装甲に対戦車砲が歯が立たず、一時英軍に突破されてしまうかに思えた。しかし、前進していたロンメルが戻ってくるとドイツ側は陣地の再構築を行い、特に88mm高射砲による水平射撃がマークII・マチルダ戦車に有効だったこともあり、英軍戦車の突進を食い止め撃退させることに成功した。さらに退却する英軍戦車大隊を、救援要請を受けたドイツ空軍の急降下爆撃機部隊が追撃し、英軍によるアラス方面への反撃はわずか半日で失敗、終結することになった。一方、翌22日、フランス軍によるカンブレーへの攻撃が行われたが、前日のアラスでの戦いに警戒を高めていたドイツ空軍の目にすぐに止まってしまい、激しい空爆を受けて撤退するにやむなきを得た。こうして、連合軍による南方面への反撃は、たいした戦果を挙げることなく失敗に終わった。しかし、この戦いが二つの波紋を呼んだ。ひとつは、BEF司令官ゴートに英国本土への撤退を決意させたことと、もうひとつは連合軍が反撃してきたことにショックを覚えたヒトラーが、快進撃を続ける装甲各軍団に停止命令を下したことであった。このふたつの波紋がダンケルクの奇跡を起こすのである。
[編集] ダンケルク包囲戦
詳細はダンケルクの戦いを参照
5月28日、ベルギーが降伏。A軍集団はイギリス海峡のブーローニュ・カレーなどの港湾都市を制圧。連合軍は西からはA軍集団装甲部隊・南からは歩兵隊・東からは追撃してきた B軍集団によって、港湾都市ダンケルク周辺で完全に包囲された。しかし、装甲師団に損害が出るのを恐れたヒトラーは、ゲーリングが空軍のみで連合軍を撃破できると主張したこともあり、5月23日進軍停止を命じた。数日後、進撃再開された際には、ダンケルクは要塞化されており、制圧したのは6月5日、その間に連合軍将兵34万人がイギリスへと脱出に成功した(ダイナモ作戦と言われる。民間の漁船やヨットまで動員した大脱出劇であった)。
[編集] フランス降伏
イギリスへと兵員は脱出したものの、戦車など重機材は脱出できず、その後のフランスは少数の歩兵主体で防衛するしかなかった。
ドイツ軍が進撃を始めると、6月10日フランス政府は市民と共にパリを放棄、6月14日ドイツ軍がパリに入城した。フランス政府は崩壊し、本土のペタン元帥の和平派の政府と、イギリスで樹立されたド・ゴールの抗戦派の自由フランス政府に分裂した。
6月21日ペタンのヴィシー政府は休戦を申し込み、フランスは降伏した。ただ、ヒトラーはフランス人を劣等民族とは見なしておらず、イギリスへの攻撃上重要なフランス北部とUボートの出撃基地として大西洋岸を占領しただけで、フランス中南部・植民地は傀儡とは言えアンリ・ペタンを首班とするヴィシー政権の自治に任せた。
[編集] フランスの敗因とヴィシー政府
かねてから、イギリスのウィンストン・チャーチルはフランス軍の弱小さを糾弾し、要塞マジノ線の建設に軍事費の多くを費やすフランスを批判してきた。しかし、フランスは軍備拡張がドイツを刺激するのを恐れ、チャーチルの苦言に耳を貸さなかった。
また、ナポレオン時代以降、フランスの人口は減少傾向にあり、兵員を増やしたくても増やせなかった事情もある。ナポレオンの強さは(ロシアを除けば)欧州で人口第一の国民に徴兵制を施行し、圧倒的な兵力を集中できたことにある。ナポレオン戦争による青少年の減少と、離婚・中絶の増加で、当時フランスの人口はドイツ・イギリスより少なくなっていた。
ヴィシー政府は敗戦の反省から、「過度な個人主義の抑制・国家への忠誠を無視した教育の変更・意味を失った宗教の再興」を掲げる、「国民革命」を行った。青少年に軍隊式のスパルタ教育を施し、離婚・中絶・売春を防止し、カトリック教を支援した。経済面でも、個人主義を抑制し社会主義的な労使協調・農業集団化を行った。しかし、ナチス・ドイツに協力し、強制労働・ユダヤ人虐待・秘密警察の設置などの蛮行も行ったことも忘れてはならない。
[編集] この戦い及び占領下のフランスを舞台とした作品
- 「ダンケルク」(1964年、仏伊合作映画)
- 「激戦ダンケルク」(1958年、イギリス映画)
- 「禁じられた遊び」JeuxInterdits(1952年、フランス映画):ルネ・クレマン監督の代表作。パリを放棄して逃げる途中、ドイツ戦闘機の機銃掃射で両親を亡くした5歳の少女と、農家の少年との触れ合いを描いた。5歳にして墓地から十字架を盗み出し、昆虫などの死体を埋葬する「禁じられた遊び」を覚えた姿は何とも痛ましい。反戦映画として評価が高く、ギター演奏の主題歌でも知られる。主役のブリジット・フォッセーは、一躍アイドルとなった。
- 「渡洋爆撃隊」(1944年、アメリカ映画)
- 「影の軍隊」(1969年、フランス映画)