ハインツ・グデーリアン
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ハインツ・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian,昔はグーデリアンとも訳された)(1888年6月17日 - 1954年5月14日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親であり、またそれを実践した最高級の野戦軍指揮官。最終階級は上級大将。
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[編集] 第二次世界大戦まで
1888年にヴァイクセル河畔の街クルム(独:Kulm,現ポーランドのヘウムノ・ナド・ヴィスウォン, po)にプロイセン王国の陸軍士官の息子として生まれる。
第一次世界大戦にはコプレンツ第3電信大隊に勤務して無線技術に目を開かされる。大戦後、ヴェルサイユ条約により参謀本部、航空機、潜水艦、戦車の保有を禁じられ、兵力も10万人に制限されたヴァイマル共和国の陸軍に選び残され、兵務局の名称で偽装した参謀本部の自動車兵監部(独:Inspektion der Verkehrstruppen,英:Inspectorate of Motorized Forces,交通兵監部、自動車部隊兵監部とも訳される)に勤務する。先見性の明を持つ上官であったオスヴァルト・ルッツ (Oswald Lutz) 将軍の下で、彼はイギリスのJ.F.C.フラー (J.F.C. Fuller) 、リデル・ハート (B.H. Liddell Hart) やフランスの当時無名だったド・ゴールの著作の影響を受けて、装甲部隊、機械化部隊を用いた革新的な戦術研究に勤しみ、「ベニヤ板のハリボテ戦車」で戦車戦術を研究、ソ連とのラパロ条約の独ソ秘密軍事協定に基づきソ連奥地での戦車士官の教育・訓練に関与する。
自動車の将来性を理解していたヒトラーは党内に国家社会主義自動車団 (NSKK) を設け、多くの自動車運転者、修理技術者を養成していた。このような背景にヒトラーは、グデーリアンの戦車部隊の集中運用に注目し、歩兵直協に凝り固まった保守的な陸軍上層部に反して、グデーリアンを後援した。グデーリアンは1935年の再軍備宣言の下、新設された第2装甲師団の師団長に就任、1937年に「戦車に注目せよ!」 (Achtung Panzer!) を出版した。1938年オーストリア併合にはグデーリアンは第2装甲師団と親衛隊武装部隊 (de)を率いて短時間にオーストリアに進駐して、理論の有用性を実証した。第2装甲師団は670キロ、LSSAH 連隊はベルリンから1000キロを48時間で走破して、ウィーンに入城した。
[編集] ポーランド戦からフランス戦
第16装甲軍団長(2個装甲師団+1個自動車化歩兵師団)となったグーデリアンは、チェコのズデーテンラント地方進駐を速やかに成功させた。
次いで1939年におけるポーランド戦役においては、ドイツ本土と東プロシア地方を切り離していたダンチヒ回廊を速やかに横断し、ブレスト・リヒトフスクまで進撃した。
1940年のフランス戦においては、ドイツ軍の至宝マンシュタインのプランにおける槍の穂先となり、アルデンヌ高地を走破した後にアミアンからダンケルクまで快進撃を行った。あまりの快進撃振りに、上層部から度々停止命令がでたほどである。ダンケルクにおいては攻撃を禁止され、ダンケルクの奇跡を目の前にみながら、何もできなかった。次いで南下しアルプスまで進撃してフランス軍を壊滅させる原動力となった。
彼の編み出した戦車部隊の集中運用と航空支援に基づく電撃戦は、第二次世界大戦開戦後、ポーランド、フランス、ユーゴスラビア、独ソ戦緒戦期にまでドイツに大勝利をもたらした。グデーリアンは、1940年12月から1941年4月にかけ訪独した山下奉文中将率いる陸軍軍事視察団に電撃戦に関する講義を行った。
[編集] バルバロッサ作戦以降
1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦においては、中央軍集団(ボック元帥)において第2装甲集団(後に補給組織が追加され、第2装甲軍に昇格)の司令官として、同僚のヘルマン・ホト上級大将指揮の第3装甲集団(後に第3装甲軍に昇格)と共に軍集団主力として進撃。主に軍集団南翼を担当し、ホトの部隊と共同でミンスク包囲戦、スモレンスク包囲戦において大戦果を挙げる。彼の指揮下の戦車には頭文字のGが記され(ホトの戦車にはHが記された)、韋駄天ハインツとの異名を与えられる。
次いで戦略方針としては反対意見であったものの、プリピャチ大泥田東方を南方から南下して南方軍集団と共同の戦略的大包囲を行った南方旋回を成功させた。このキエフ会戦は「野戦軍の撃滅」と「重要拠点の奪取」という相反した目標において野戦軍の撃滅を優先させた策で、グデーリアン自身は後にモスクワへ直進すべきであったと述べているが、実際にはそれでは南方軍集団の後の進撃が困難であったことや、また補給組織がスモレンスク以東への進撃に対して未整備であったことから、実際にはヒトラーの選択した野戦軍の撃滅が正解であったという意見も多い。
次いでモスクワ進撃を再開し、10月にはブリヤンスク・ヴィヤジマにおける二重包囲戦でまたもや大戦果を挙げ、11月には第3装甲軍のラインハルト上級大将、第4装甲軍のヘープナー上級大将と共にモスクワ攻略を開始した。グデーリアンは小モスクワとも呼ばれたモスクワの南の門ともいわれる要塞化されたツーラを迂回して、南からモスクワを伺った。しかし兵力・補給・準備など全てが不足し、特にツーラを迂回したことによる弊害(後に攻撃を行うが失敗)、突出による南翼の開放部の存在(担当の第2軍は歩兵中心で追いつけなかった)、北の2つの装甲軍と南西から進撃したグデーリアンの第2装甲軍との間を埋める、第4軍のクルーゲ元帥とそりがあわずに攻撃が連動でなかったことがあり、さらにソビエト軍自体がシベリアなどから多数の部隊を引き抜いて十分な予備を確保していたことなどもあり、攻撃は困難となった。12月にはグデーリアンは作戦を中止して後方にさがり越冬すべきとヒトラーに直接具申したが、そこで解任された。
その後1943年3月1日に装甲兵総監に任命された。この役職は部隊指揮権を有しない閑職であったが、装甲部隊の再建に奔走した。1944年7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件で負傷したクルト・ツァイツラー(Kurt Zeitzler)上級大将の後任として、7月21日参謀本部総長に任じられる。ヒトラーの作戦への容喙を阻止しつつドイツ防衛の重責を担ったが、1945年に入ると国境に迫ったソ連軍に対する防衛戦略を巡ってヒトラーとの対立は頂点に達し、3月28日に解任された。
[編集] 戦後
戦犯となり、禁固刑となった(のちに釈放)。アメリカなどにその理論が評価され、陸軍機甲学校に招かれ講義をしたり、著着を残した。
[編集] 人物
典型的なプロシアの武人といった印象が強く、高潔な人柄は尊敬されている。一方で同僚や上司などにも直言することから受けが(かなり)悪かったのも事実である。
ナチの崇拝者ではなかったようであるが、ヒトラー個人には自身の意見(装甲部隊の創設とマンシュタイン・プラン)を受け入れられたことから、良い感情をもっていた。大戦後半の悪い取り巻きによって前線視察などを行わなくなったヒトラーには批判しているが、著作ではヒトラーその人には大きな批判はしていない。ただし、自身の意見と異なるものには批判している。ヒトラーに対しては何度も直言している。
新設の装甲教導(Panzer Lehr)師団の装備の充実振りに、「この1個師団で連合軍を海に叩き落せるだろう」と自信を持っていたが、実際にはノルマンディーの攻防戦で大損害を受け、バルジの戦いでは消耗した状態で投入された。
古きよきユンカー(荘園地主)にあこがれていた。ヒトラーには望みどおり荘園をもらっている。
砲塔を持つ戦車を装備することにこだわったが、守勢であった実情からすれば、突撃砲や駆逐戦車などを大量にそろえた方がよかった。
前線を指揮車輌で走り回った最初の指揮官。また、最良の装甲部隊指揮官の一人。
彼の装甲部隊理論は当時突出したものではなく、リデル・ハートなど複数の軍事評論家や軍人などが研究していた。グデーリアンの偉大なところは、ドイツを含む全ての国で保守的な軍人によって猛反対にあっていたのに対し、結局のところそれを実践させてしまったところにある。また、通信畑にいたこともあり、無線機を全車輌に装備させたのは彼の先見の明の現れであり、大功績である。
[編集] 著作
- (戦車部隊運用の理論書): Achtung Panzer!,1937年
- (戦車部隊運用の理論書の英訳): Achtung-Panzer!, the Development of Armoured Forces, their Tactics and Operational Potential, Arms and Armour, 1995, ISBN 1-85409-282-0
- (回顧録): Erinnerungen eines Soldaten, Motorbuch Verlag, 1994, ISBN 3-87943-693-2
- (回顧録の英訳): Panzer Leader, the true story of one of Hitler's most brilliant generals, Arrow Books, 1990, ISBN 0-09-963040-0
- (回顧録の和訳):『電撃戦-グデーリアン回想録』、本郷健訳、フジ出版社、1974年、ISBN 4-89226-029-0
- (回顧録の復刻版):『電撃戦-グデーリアン回想録』、本郷健訳、中央公論新社、1999年、ISBN 4-12-002882-8
[編集] 文献
- 加登川幸太郎(著)、『帝国陸軍機甲部隊』、白金書房、1974年
- ゲハルト・ボルト(著)、松谷健二(訳)、『ヒトラー最期の十日間』、TBS出版会、1974年
- ジョン・キーガン(著)、加登川幸太郎(訳)、『ドイツ装甲軍団 グデーリアン将軍の戦車電撃戦』、株式会社サンケイ出版、1980年
- レン・デイトン(著)、喜多迅鷹(訳)、『電撃戦』、早川書房、1998年、ISBN 4-15-203390-8
- カール=ハインツ・フリーザー(著)、大木毅・安藤公一(訳)、『電撃戦の幻(全二巻)』、中央公論社、2003年、ISBN 4-12-003364-3
- 土門周平(著)、『日本戦車開発物語』、光人社、2003年、ISBN 4-7698-2391-6
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