トーン・クラスター
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トーン・クラスター(英:Tone Cluster)とはアメリカの作曲家ヘンリー・カウエルが用いた概念で、或る音名から別の音名までの全ての音を同時に発する房状和音のことを指す。カウエルは当時「クラスターは二度の和音の集合」と捉えていた。
目次 |
[編集] 黎明期
既に18世紀にはハープシコードの鍵盤を全て押える指示が見られるが、効果音以上の発展には至っていない。
[編集] 第二次世界大戦以前
カウエルはまずピアノを手のひらや肘で数多くの鍵盤を押える実験から開始し、その結果は数多くのピアノソロ作品に現れている。それと期を同じくしてチャールズ・アイヴズがピアノソナタ第2番の第2楽章で「数十センチのものさし状の板」を用いて肘では押えきれないほどの黒鍵や白鍵を同時に押える技法を用いている。これら二例がトーン・クラスターの黎明期の重要な作品とみなされている。さて、どちらが世界初の発案者なのだろうか?
トーン・クラスター誕生にはちょっとした逸話がある。「ヘンリー・カウエル ピアノ曲集」には「マヌナーンの潮流」でトーン・クラスターを1912年に15歳で発案したと発表し、最近までこの説は広く信じられていた。近年カウエルの全作品目録を製作した研究者により、この作品は1917年に演劇の付随音楽(もしくはオペラ)として書かれた作品の第一曲であったことが判明した。つまり、トーン・クラスターの世界初の発案者になるために、アイヴズに「世界初が誰か」を相談していたというものである。アイブズ自身も自作曲のミス・リードを行う癖があったことも災いして、「カウエルがトーン・クラスターの発案者として世界を駆け巡る事」をアイブズに約束した。
こうして、カウエルは戦前から世界中でトーン・クラスターの講義を行ったらしく、アルバン・ベルクの「ルル」、バルトークの「ピアノ協奏曲第2番」、イワン・ヴィシネグラツキーの「24の前奏曲」、ジャチント・シェルシの「ピアノソナタ第三番」などの作品にトーン・クラスターの使用が認められるのは、全てカウエル経由の影響によるものである。出版されたカウエルの「虎」に英語、ロシア語、ドイツ語で注釈が加えられているのは、講義を行った国々を示す証拠でもある。
アイブズはその後、トーン・クラスターをオーケストラで鳴らすことを欲し、「独立記念日」ではカウエルの指導通り「二度の和音の集合」といった記譜法で弦楽パートを全て埋め尽くしており、街中の騒音を描写したような特異な音響を生み出すことに成功した。
以上の戦前までのトーンクラスターはほぼ単発的な効果音としての使用に限られており、カウエル本人もこのような使用方法しか思いついてはいなかった。
[編集] 第二次世界大戦以後
[編集] オルガン
戦後、カウエルやアイブズの発案したトーンクラスターは、ダルムシュタットにて様々な議論が戦わされることとなった。その最初の問題作がマウリツィオ・カーゲル作曲オルガン独奏の為の「追加された即興」、ジェルジ・リゲティ作曲「ヴォルーミナ」である。
カーゲル作品では通常のオルガン奏者のほかに二人の音栓助手が必要である。何が話題になったのかというと、オルガンから生まれるトーン・クラスターのタイプを詳細に分析した最初の作品である、と同時に音栓助手はオルガニストの手の動きとは無関係にすばやい速度でストップのオンオフをランダムに行う点が、当時のオルガン音楽の常識を超える新技術とみなされた。ジョン・ゾーンはこの作品を聞いて作曲家になることを決意したといわれる。ジェルジ・リゲティは既にマイクロ・ポリフォニーの探求の延長線上でトーン・クラスターを生むことに成功したが、彼もまたオルガンに興味を示した時期がある。その代表作が「ヴォルーミナ」で、全編図形楽譜からなるこの作品は、ほとんどがクラスターで構成された作品である。「オルガンが壊れる」というほどの凶悪な音像を示す瞬間もある。事実、初演の際の練習ではオルガンの電気系統の一部がショートし煙が吹いたという逸話もある。
現在でもこれほどアナーキーなオルガン音楽は珍しく、「現代オルガン音楽」はこの2作品で終わったと言い伝えられるほど、両者のインパクトは強かった。
[編集] ピアノ
既に戦前から可能性が追及されていたピアノのクラスターは、「ほぼクラスターのみで語る」作品の可能性が追求されることとなった。典型例はジャチント・シェルシの「アクション・ミュージック」であり、この頃のシェルシはクラスターが単なるSEに留まってはいない。カールハインツ・シュトックハウゼンの「ピアノ曲第十番」は指先のない手袋をはめたピアニストの為の作品で、クラスターのグリッサンドや肘などのクラスターの音響的インパクトが大変に華麗で、1960年代に書かれたピアノ作品の傑作と伝えられている。アンソニー・ブラクストンの「コンポジション第32番」は全曲がクラスターで構成された確定作品である。一柳慧の「ピアノ曲第六番」はインストラクションのみで、クラスターとグリッサンドに素材を限定した不確定作品を作曲した。
前衛の時代から遠く離れて、サルヴァトーレ・シャリーノの「ピアノソナタ第四番」では、「クラスターと装飾音」のみで全曲を構成する奇異なピアノ曲を発表した。この作品では「片手のみで鍵盤の全音域を瞬時に往復する」極めて困難な技術が用いられる為に、演奏頻度が稀少である。この作品の練習で「首筋を痛める事」があるらしい。モーリッツ・エッゲルトの「ヘマークラフィーア第三番 ワンマンバンド」では、左足でピアノの低音域クラスターを奏する指示があり、右手と左手と左足の三声のテクスチュアが織り成される箇所が印象的である。
[編集] オーケストラ
アイブズのような二度の和音の堆積といった概念から離れ、「特定の音名からまた違う音名まで」を塗りつぶす音響を最初に考案したのはイアニス・クセナキスであり、その弦楽器によるトーン・クラスターは、パートを分割して音を埋める範囲の各音に各奏者を割り当てる方法を採ったり、音を埋める範囲をグリッサンドで上下する方法が採られた。彼の初期作品の与えた衝撃は大きく、日本とポーランドの作曲家を中心に影響を与え、後者は第一次ポーランド楽派としてブランド化する。クセナキスのクラスターをより単純化して楽譜化した作曲家にクシシュトフ・ペンデレツキとヘンリク・ミコワイ・グレツキがいる。ペンデレツキのクラスターは横に持続する響きの帯だが、グレツキの用いるクラスターは激しい断絶音として用いられるのが特徴である。1960年代以降は彼らだけに留まらず、前衛作曲家たちに広く用いられる定番技法とみなされるようになった。
[編集] 合唱
合唱曲における「積極的な」最初の使用例はジェルジ・リゲティの「パパイ夫人」であるが、当時リゲティはチャールズ・アイブズの存在も知らず、バルトークが弦楽四重奏で初めて用いていた半音トーン・クラスターをアマチュア合唱団向けに全音階で積み重ねた。
1960年代前半にはペンデレツキの「時と静寂の次元」、「ルカ受難曲」や前述のジェルジ・リゲティの「レクイエム」の中で用いられていた。1970年代からは日本人の合唱作品にも少しずつ使われ始め、青島広志「マザーグースの歌」や廣瀬量平「海の歌」、八村義夫「愛の園」などでアマチュア団体にもこの唄法が普及した。
もっとも、合唱の音符に特定の音高を与えないことで一種のクラスターを生むことができる。この技法はヴァンサン・ダンディのオペラ「フェルヴァール」ですでに見られる。この騒音効果も1960年代を生きた作曲家によって瞬く間に駆逐された。