イワン・ヴィシネグラツキー
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イワン・ヴィシネグラツキー(Ivan Alexandrovich Wyschnegradsky〔Иван Александрович ВЫШНЕГРАДСКИЙ(キリル文字どおりに発音するとヴイシュネグラツキイ) 〕, 1893年 ペテルブルク - 1979年)はロシア帝国出身のフランスの作曲家。専ら微分音音楽の追究者として有名。四分音から始まり、最大十二分音までを編み出した。
青年時代はスクリャービンに影響を受けていたが、やがて半音より狭い音程を使って作曲することを夢見るようになる。1920年にソ連からパリに亡命。1922年にベルリンを訪ねて、アロイス・ハーバ、ヴィリー・メレンドルフ、イェルク・マーガーらの、微分音程の作曲家を訪ねてベルリンに赴く。ハーバと四分音ピアノを共同制作する計画であったが、ビザの問題で中断され、パリに引き返さざるを得なかった。
その後は協力者を得て、自力で2段鍵盤による四分音ピアノを開発。第二次世界大戦中は結核のために療養生活を送っていたが、1950年に退院して程なく、支持者のひとりであったオリヴィエ・メシアンに作曲活動を継続するよう励まされた。その頃のメシアンはヴィシネグラツキーの「房状和音」に強く影響され後年の管弦楽法で「微分音抜きで」転用している。
委嘱こそもらえなかったが独力で作曲を続け、6台ピアノの為の「宇宙」や2台8手のピアノの為の「ディアローグ」などの傑作を生み出した。ピアノスケッチのみが残された歌劇は、依然として未初演のままである。死の直前になってフランス楽壇から急に注目され、しぶしぶラジオ・フランスが「弦楽三重奏曲」を委嘱したものの、その作品が未完に終わるという恵まれない晩年でもあった。ヴィシネグラツキーの理論は弟子のクロード・バリフの「ハイパートナリティ」へ大きな影響を与え、武満徹は「閉じた眼II」で「回転運動のための習作 作品45」から直截な素材引用を「微分音抜きで」行っている。
メシアンや武満らによって「微分音抜きに」ヴィシネグラツキーのイディオムが見られるのは、微分音を推奨した彼にとっては大変残念なことである。科学と音楽の融合を夢見た彼の思想は、フランソワ=ベルナール・マシュ、ヤニス・クセナキス、フランチェスコ・ゲレーロ、ジャン=クロード・リセなどの作曲家にも間接的に受け継がれた感がある。
[編集] 主要作品
- 管弦楽伴奏つき歌曲
- カンタータ《存在の日》
- 4台の四分音ピアノのための作品
- 回転運動のための習作 作品45 Etude sur les Mouvements rotatoires
- 2台の四分音ピアノのための作品多数
- 演奏会用練習曲集 作品19
- 24の前奏曲 作品22 24 Préludes dans l’échelle chromatique diatonisée(1934年、改訂1960年/1970年)
- フーガ 作品33
- 調整 Integrations 作品49
- 2台の六分音ピアノのための作品
- 前奏曲とフーガ Prélude et Fugue 作品30
- 鼎談 Dialogue à Trois (1974年)
- 室内楽
- 弦楽四重奏曲 第1番 作品13(1923年~1924年)・・・四分音による
- 弦楽四重奏曲 第2番 作品18(1930年~1931年)・・・四分音による
- 弦楽四重奏曲 第3番 作品38(1945年~1959年)・・・通常調弦による
- 弦楽三重奏曲 作品53(1978年)・・・四分音による
[編集] 外部リンク
- Dartmouth.edu: Ivan Wyschnegradsky by Franck Jedrzejewski
- xs4all.nl: Ivan Wyschnegradsky