トラバント
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トラバント(Trabant)は旧東ドイツの小型乗用車である。
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[編集] 概要
愛称の“Trabant”はドイツ語で「衛星」「仲間」「随伴者」などを意味する。「トラビ」の愛称で親しまれた。
1958年から1991年まで長期に渡って生産されたが、大まかには1958年~1964年のP50・P60と、1964年以降のP601に分けられる。長いモデルライフを通じ、大規模なモデルチェンジは行われなかった。ボディが「紙でできている」といわれることがあるが、実際は繊維強化プラスチック製である。
ベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のVWゴルフと古色蒼然としたトラバントが、肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。東側諸国の人々がトラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。
生産中止後10年以上を経過し、走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域および周辺諸国においては、急激に淘汰されている。
[編集] 開発までの背景
メーカーは、東独時代にカール・マルクス・シュタット(現在のケムニッツ)の行政区内にあったツヴィッカウ(Zwickau) に所在した、東ドイツ国営企業のVEBザクセンリンク(VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau)である。第二次世界大戦前のドイツを代表する民族系自動車メーカー「アウトウニオン社」の旧工場のうち、高級車ホルヒの生産拠点で、戦後東ドイツ地域に含まれたツヴィカウ工場がその前身であった。
アウトウニオンは元々ドイツの民族系自動車メーカー4社が外資対抗のため1932年に大合同して成立したメーカーである。オートバイ及び廉価な大衆車がDKW、上級小型車担当がヴァンダラー、中型車はアウディ、大型高級車はホルヒという形で分担した。
このうち1904年創業のDKWは、第一次世界大戦後に自転車補助動力用の2ストロークエンジンを開発して以来、1920年代にはオートバイメーカーとして急成長、1928年からは2ストロークエンジン搭載の小型乗用車生産にも進出して、アウトウニオン結成の中核ともなった企業である。DKWは1931年に、大衆車としては史上初の量産型フロントドライブ車である500cc車「DKW・F1」を発表、以来前輪駆動方式を得意としていた。
VEBザクセンリンクは、ホルヒ工場を引き継いだ1949年以来、戦前形DKWの同型車および第二次大戦直前の試作車であったDKW・F9をベースにした800ccクラスの2ストローク前輪駆動車を製造していた。しかし1956年以降、このクラスのモデルについてはBMWアイゼナハ工場の後身であるVEBアイゼナハ社が生産することになり(この結果1957年にモデルチェンジされてアイゼナハから登場したのが3気筒900cc車のヴァルトブルクである)、ザクセンリンクはより小型のモデルを製造することになった。トラバントはこうして送り出された。
[編集] なぜ2ストロークだったか
2ストロークエンジンを4輪自動車に用いることは、21世紀初頭の現在では完全に廃れている。その最たる理由として、クランクケース圧縮式の2ストロークガソリンエンジンは、混合気の吹き抜けや、燃料に混合されたオイルの燃焼による使い捨てによって、排気ガス浄化や燃費改善が困難である事実が挙げられる。他にも騒音や熱対策など、2ストロークエンジンが4ストロークエンジンに比して抱えるハンデキャップは多い。圧縮比も4ストロークほど高く取れない。また過給器(ターボチャージャー、スーパーチャージャー)との相性も良くないとされている。
元々2ストロークエンジンは簡易なエンジンであり、4輪自動車用としては、世界的に見てもイギリス・ドイツ・イタリア(1950年代以前のサイクルカー、ミニカー、バブルカー)や日本(360cc時代の軽自動車)などの超小型車における使用がほとんどである。だが一時は4ストロークエンジンを凌駕するエンジンと見られた時期もあった。DKWはその中でも徹底した事例と言える。
2ストロークエンジンは、4ストロークエンジンに比して爆発頻度が2倍になり、限られた排気量の中で出力を稼ぎやすかった。またその簡素な構造は、製造コストの低さ、メンテナンス性の良好さ、省スペースなどのメリットがあり、4ストロークエンジンの性能が飛躍的に向上する以前には、特に小型車において2ストロークエンジンを採用する積極的動機となった。顕著なデメリットとしてはエンジンブレーキの能力が低い(潤滑難から焼け付きを起こすことがある)程度であった。
コスト面で4気筒エンジンを搭載できない超小型車の場合、小さな2気筒や3気筒エンジンだと爆発間隔の短い2ストロークエンジンの方が振動対策面で有利でもあった。DKWは、1950年代~1960年代にかけて、2ストローク3気筒エンジンのスムーズな回転を「(高級車にしばしば用いられる)4ストローク6気筒に比肩するもの」として売りにしていた。戦後のDKW車には「3=6」というモデルもあり、その3気筒エンジンには、「3=6」の表記が堂々と鋳込まれていたというエピソードもある。
1970年代、アメリカのマスキー法制定以降は排気ガス問題以外にも2ストロークエンジンの短所が目立つようになり、西側諸国の市場からは1980年代初頭のスズキ製軽自動車を最後に(特殊な超小型車両を除いて)2ストローク4輪自動車は消えることになった。
だが西側諸国と違い、東ドイツには排気ガス規制などがなかった。このためトラバントは1980年代後半に至っても、2ストロークオイルの紫煙を盛大に排出して走行していた。同じ2ストロークエンジンでも、日本のそれはエンジン本体に加えオイル及びガソリンの添加剤の改善により、派手に紫煙を上げるようなこともなくなっていたし、さらには潤滑油自動混合まで実現していた(混合給油では燃料タンク内での混合不良により焼き付きを起こすことも多かった)にも関わらずである。2ストロークエンジンの本格的な量産型4輪自動車としては、同じ東ドイツのワルトブルクと並んで世界で最後の存在であった。
[編集] 構成
全長3,5m、車幅1,5mのコンパクトなサイズである。定員は4名。
エンジンは直列2気筒2ストロークの空冷エンジン横置き配置で、FF方式であった。4輪自動車のエンジン横置き配置は2気筒クラスでは珍しいことではなく、1931年のDKW・F1からして2気筒横置きエンジンである(一般に横置きエンジンの最初とされるイギリスのMINI(1959、アレック・イシゴニス設計)は、大きな4気筒エンジンを横置きにしたことに意義があった)。
ラダー・フレーム上に別体のボディを載せる古典的構造で、大きな強度を必要としないことから、ボディの一部はFRPで造られていた。このため軽量に仕上がり、車重は600kg強に過ぎない。東ドイツで物資が不足するようになるとボディ材料の繊維がボール紙様となり、末期には粗悪な製品となっていた。
2ドア3ボックスのリムジーネ(セダンボディ)の他、ユニバーサル(ワゴン形)もあった。1964年以前のP50・P60は丸みの強いボディでフロントグリルがなかったが、1964年以降のP601はやや直線化されて屋根が浅くなり、フロントグリルも設けられた。
ライトのHi-Lo切り替えスイッチはライトの真下にあり、切り替え操作は一旦クルマから降りて行う必要があった(日本の漫画『マスターキートン』にトラバントが登場し、この操作を行う描写がある)。
ブレーキは全期間を通して4輪ドラムブレーキであったが、明らかに性能不足であった。
[編集] エンジン
クランクケース圧縮式2ストローク空冷直列2気筒エンジン。初期形P50(1958~1962)では500cc、その排気量拡大型P60(1962~1964)では600ccとなり、ボディ回りなどをマイナーチェンジした1964年以降のP601でもこれが踏襲された。P601のエンジンスペックは594cc、最大出力23HP/3,800rpm(DIN。26HP/4200rpmというデータもある)、最大トルク5.5mkg/3000rpmで、1970年代の日本の軽自動車にやや劣る程度の内容である。
公称最高速度はP601の場合で95~105km/hと言われる。到底連続走行できるようなものではなかったが、4人乗せて80km/h以上のスピードは出た。ただし、加速時間は相応なものが必要である。
[編集] 燃料タンク
古典的2ストローク機関の例に漏れず、エンジンオイルをガソリンに混合給油する方式である。
24リッターの混合燃料タンクは、ボンネット内のダッシュボード前方に置かれていた。第二次世界大戦以前の自動車と何ら変わらない配置である。タンクは常にエンジンより高い位置にあるため、燃料供給は重力による自然流下で、燃料ポンプは不要であった。
このレイアウトは簡潔ではあるが、正面衝突時やエンジンの異常過熱時には発火するおそれがあり、安全性の面では極めて不利である(もっともフォルクスワーゲン・ビートルなど同時代の自動車もフロントノーズに燃料タンクを収めており、衝突時の発火危険性はトラバント固有の問題ではなかった)。
燃料計は付いていないので、燃料を入れた際のトリップメーターの数値を覚えて給油時期を逆算する必要があった。
[編集] 変速機
ギアボックスはコンスタントメッシュ(常時噛み合い式)の4速型であるが、ノン・シンクロメッシュであり、スムーズな変速にはダブルクラッチが必要であった。1970年代以降はほとんど博物館級と言ってよい古典的変速機であった。
シフトレバーはコラムシフトであった。1930年代に大型のアメリカ車から普及し始めたコラムシフトは、1950年代にはヨーロッパでもブームとなり、小型車での採用も珍しくなくなっていた。トラバントもその流れに乗ったと言える。狭い車内幅を有効に使う一策として、コラムシフト採用にはそれなりの意味があった。
しかし1960年代後半以降の西側自動車界では、シフトレバー位置はコラムからフロアタイプに回帰するようになった。それでもトラバントは最後までコラムシフトを堅持し続けた。
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- フロアへ回帰した理由のひとつとして、マニュアルトランスミッションの5速化に、コラムシフトでは技術的に対応が難しい点が上げられる。皮肉なことにトラバント消滅後の1990年代後半に入って、車内スペースを有効に使う手段として再び普及した。オートマチックトランスミッションでは、シフトレバーはトランスミッションに直結していないので、フロアである必要性がなくなったのである。もちろん、エンジンの飛躍的な高性能化から経済運転のために必要となった5速化とも、1980年代以降西側諸国で主流へと置き換わったオートマチックとも、トラバントは無縁であった。
[編集] サスペンション
前後とも横置きリーフスプリングで吊られた独立懸架(フロントはウィッシュボーン、リアはトレーリングアームとトランスバース・リンク支持)。リーフスプリング同士の摩擦・摺動によってダンパーとしての効果も得ようとするものであるが、独立懸架としては旧式な設計である。
[編集] 評価
トラバントは1958年の登場時点では、さほど時流に遅れた自動車ではなかったと言える。複合材料による車体構築も一つの合理性として評価に値するものであった。
しかし、西側の安全・環境規制の厳格化や企業間競争、技術革新とは無縁に生産され続けたことで、完全に時代遅れな存在となり、ついには社会主義体制の硬直性の象徴とも言うべき存在となってしまった。
東ドイツの庶民にとっては贅沢品である上に、注文から納車までには途方もない年月がかかり、10-12年待ちが当たり前ですらあった。そのため「買う予定はないがとりあえず注文をする」ということも普通に行なわれていた。注文してから実際に購入するまでの期間があまりに長いために、すぐ手に入る中古車の方が新車よりも高値で取引されていた。
東西融合の象徴的なクルマであったことから、1990年前後には日本でも輸入を試みるショップが存在したが、排気ガス規制をクリアできず断念したようである。
なお東西自由化後に行われた最後のモデルチェンジでは、旧東側の生産体制(つまり雇用体制)を確保することから、フォルクスワーゲン製エンジンを搭載した、西側対応モデルが発表された。このモデルには、カブリオレ仕様や、カーステレオのオプション等、旧来の東側の体制では考えられなかったような豪華装備バージョンも登場し、主にネタ需要として西側の住人が購入したという。最後まで冷戦を象徴する存在であった。
[編集] 外部リンク
- GAZOO(トヨタ自動車)の『名車列伝』より「トラバント601」
- 60年代旧東ドイツTVCMコレクション(YouTube、トラバント初代CMなど)