アウトウニオン
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アウトウニオン (AUTO UNION) は1930年代~1980年代に存在したドイツの民族系資本の自動車メーカー。今日のアウディ社の前身となった。
1932年、ホルヒ(HORCH)・アウディ(AUDI)・ヴァンダラー(WANDERER)・DKWの4社合併で結成された。アウトウニオンは日本語で「自動車連合」の意。一つの自動車グループだが最高級車をホルヒ、先進的な中型車をアウディ、小型車をヴァンダラー、大衆車をDKWが担うことでブランドとして4社が残った。のちにNSUを合併している。
その社名は1930年代、フェルディナント・ポルシェ設計の高性能レーシングカー「Pワーゲン」を送り出し、グランプリレースにおいて成功を収めたことで特に著名である。
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[編集] 経緯
ホルヒおよびアウディの設立についてはホルヒ・アウディの項を参照。ホルヒ社は1898年創立、アウディ社はホルヒ社を退いた創業者アウグスト・ホルヒによって1909年創立。
[編集] ヴァンダラー
ヴァンダラー社は堅実な小型車・オートバイを生産して定評のあったメーカーである。
1885年に自転車輸入会社「ケムニッツアー自転車倉庫社」として設立され、1896年からは自転車の自社製造を開始した。他にも工作機械やタイプライターなど多彩な製品を生産した。
1902年からオートバイ生産に参入、更に1904年からは小型自動車開発を進め、1911年に1147ccの小型車「ティープW1"プップヒェン"5/12PS」を発表。「プップヒェン Puppchen」(お人形さん、可愛い娘)という名と華奢な外見でありながら、それに似合わぬ耐久性を備え、市場から好評を得た。
順次拡大型「W3」「W8」が送り出されたプップヒェン・シリーズは、1920年代中期まで長期生産されるヒット作となる。これによってヴァンダラーの業績は伸長、ドイツの小型乗用車業界を代表するメーカーの一つに成長する。1926年にはドイツでもいち早く4輪ブレーキ仕様車を開発した。
同社の象徴である双葉のエンブレムは、1929年の制定である。
[編集] DKW
DKW社(日本では一般に「デーカーヴェー」と読まれることが多い)は、ドイツでは後発のオートバイ・自動車メーカーでありながら、得意な技術である2ストロークエンジンを活かして急成長を遂げた存在である。
デンマーク人で若くしてドイツに渡った機械技術者イェルゲン・スカフテ・ラスムッセン(Jorgen Skafte Rasmussen 1878-1964)により、ケムニッツでラスムッセン&エルンスト有限会社として1906年に創業した。
当初機械メーカーとして業績を伸長。第一次世界大戦中の1914年には得意分野であった蒸気機関関係の技術を活かし、蒸気自動車の試作を試みたものの失敗している。ドイツ語で蒸気自動車を意味するdampf kraft wagenを略して「DKW」の社名が生まれた。
ラスムッセンは1918年、エンジン技術者フーゴ・ルッペに25ccの2ストロークエンジンを開発させる。このエンジンは「DKW」との語呂合わせで「Des Knaben Wunch(若人の夢)」と名付けられ、自転車補助エンジンとして売り出された。DKWの語呂合わせは更に続き、このエンジンはDas Kleine Wunder(小さな奇跡)と改名されている。小さなDKWエンジンは経済的で性能も良かったことから、戦後の不況に悩むドイツでヒット作となった。
DKWは2ストロークエンジンの技術を活かし、1921年以降本格的なオートバイ生産に乗り出す。この当時の4ストロークエンジンは高速化・高出力化が難しく、小さくてもパワーを稼げる2ストロークエンジンはオートバイ用に最適であり、DKWの小型オートバイは高性能で人気を博した。そして僅か数年のうちに当時世界最大級の二輪車メーカーに急成長した。
DKWは余勢を駆って1928年に四輪車に進出、2ストロークエンジンを搭載した先進的な小型大衆車を市場に送り出した。同年、当時清算の危機にあったアウディの過半数株を買収する事により同社を救済して傘下に収め、経営に参画する事となった。
アウディ社の技術陣によって1931年に開発された「DKW・F1」は、500ccのミニカーであったが、量産型大衆車としては世界で初めての本格的な前輪駆動車であり、自動車の歴史に重要な足跡を残した。「F1」とその改良型は当時のドイツで大きな商業的成功を収めた。
[編集] アウトユニオン成立
ワイマール体制下のドイツは、混乱期を経て1920年代後半にようやく一時の安定期を迎えたが、1929年以後の世界恐慌の影響で、経済破綻寸前に追い込まれた。
当時のドイツ自動車業界では、最大手メーカーであったオペルが1929年にGMに買収され、またフォード・モーターがケルンに「ドイツ・フォード」の大工場を開設するなど、アメリカ系自動車メーカーの進出が著しかった。その攻勢に、民族資本のメーカーは消滅の瀬戸際に立たされ、弱小企業の淘汰が進行、またダイムラー社とベンツ社の合同によるダイムラー・ベンツの設立など、企業合同によって生き残りを図る動きも生じた。
イェルゲン・ラスムッセン率いるDKWは既にアウディを傘下に置き、オートバイ事業も好調であった。同社はアウディを手がかりに、DKWをより上級の四輪車メーカーにステップアップしようと目論んでいた。だが、日毎に力を増すアメリカ系資本の進出に対抗するためには、より効果のある生き残り策を講じなければならなくなった。
当時の世評では、DKWとヴァンダラーの合併話が噂として流れていた。これは互いのラインナップを補完できると思われたためである。しかし、そこに高級車のホルヒが加わるとは到底考えられていなかった。
ラスムッセンは衆目の予想を上回る大胆な経営判断を下した。1932年の中頃にホルヒを、更に年末にはヴァンダラーを糾合し、ザクセン州に籍を置く民族系メーカー4社の協同で、文字通り「自動車連合」という意味の「アウトウニオンAG」を結成することに成功したのである。アウトウニオンは、オペルに次いで当時ドイツ第2位の自動車メーカーとなった。
アウトウニオン本社はケムニッツに置かれた。また、4社協力体制を表すフォー・シルバー・リングスのエンブレムが定められ、その輪の中には合併前の各社名が記されることになる。全車共通のフォー・シルバー・リングス・エンブレムに加え、個々のモデルを製造したブランドのバッジが並んで付けられた。従業員数は当初4500名であった。
アウトウニオンのラインナップは、合併各社の持ち味を生かした非常に幅広いものであった。軽量軽快で経済的な小型車のDKW、堅実で耐久性に優れた中型車のヴァンダラー、前輪駆動など先進的な技術を備えるアッパーミドル~上級車のアウディ、高品質なプレステージカーのホルヒという具合に価格帯を分け合ってフルラインナップを構成し、4ブランドが争うことは無かった。当時ドイツ国内である程度これに比肩しうる既存メーカーはオペルぐらいであった。大手でもダイムラー・ベンツは大衆車以下の価格帯が欠落しており、ドイツ・フォードは中級車と小型車のみで、高級車の持ち合わせがなかったのである。
なお、イェルゲン・ラスムッセンはアウトウニオン成立後、ほどなく社主の地位から引退している。
[編集] アウトウニオン・Pワーゲン
しかし、アウトウニオンの知名度はすぐには上がらなかった。そこでアウトウニオンは宣伝効果を狙い、1933年、翌年から開催されるグランプリレースへの出場を決定する。
アウトウニオンは、元ダイムラー・ベンツの卓越した技術者で、当時フリーランスであったフェルディナント・ポルシェに設計を委嘱することにした。
しかし、レース出場に伴う莫大な資金が問題となり、アウトウニオンの重役会はドイツ政府に対して資金援助を請わなければならなかった。折しも当時ドイツ首相に就任したばかりのアドルフ・ヒトラーは、3月にアウトウニオンの重役およびポルシェと会見した。もとより自動車マニアでもあるヒトラーは、モータースポーツでのドイツ車勝利が国威発揚にもなることに着目して後援に乗り出し、45万マルクもの国家的援助の元にレーシングカーの開発が進められることになった。
ポルシェは固定観念に囚われることなく、斬新なレーシングカーを開発した。現在のF1マシンの原型とも言えるミッドシップ・フォーミュラカーのPワーゲンである。Pワーゲンは、ポルシェが設計した、45度V型16気筒4.35Lエンジンを搭載する他にも、トーションバーを用いたサスペンションなど、様々な革新技術を搭載している。実際の製作はホルヒのツヴィッカウ工場で行われた。
1933年半ばに最初のモデルであるTypeAが開発着手され、同年末にはテスト走行が実施される。翌1934年3月にドイツ国内で開催された一般公開日に、250km/hの世界最高記録を含む7つの世界新記録を樹立。以後、改良を重ねながらおびただしい戦績を上げる。1936年にはベルント・ローゼマイヤーが3つのグランプリで勝利し、ヨーロッパ選手権タイトルを獲得。さらに同年にはH.シュトゥックがアウトバーンで3つの世界新記録と4つの国際クラスの新記録を樹立した。1937年にはローゼマイヤーが2つの世界記録と13の国際クラスの記録を更新し、公道で400Km/hを突破する。
このようにPワーゲンは、ダイムラー・ベンツのメルセデスW25やW125と並び、それ以前の強豪であったイタリアのアルファ・ロメオ等を斥けて、欧州のレース界を総なめにした。1930年代後半の欧州におけるグランプリ・レースは、圧倒的な実力を持つアウトウニオンとメルセデスによって牛耳られていたと言っても過言ではなかった。
Pワーゲンは1939年までのボディ形状やエンジン改良によって、最終的にTypeDにまで進化している。そのミッドシップレイアウトは操縦性の不安も多く、未だ完全なシステムとは言えなかったが、第二次世界大戦後の各国のレーシングカーに多大な示唆を与えた。
[編集] 先進技術
この頃のアウトウニオンでは市販車ビジネスも好調であり、技術革新も進展した。
ホルヒは直列8気筒エンジンを搭載した高級車を主力としたが、1935年にはドイツ車として初のV型8気筒エンジンを導入、メルセデス・ベンツやマイバッハと並ぶドイツの最高級車として君臨した。
アウディはDKWの技術応用で、中型車としてはいち早く1933年に前輪駆動を導入。ヴァンダラーには1933年に4輪独立懸架が導入されている。
DKWの得意とする2ストロークエンジンの分野では、当時最先端のシニューレ掃気方式(燃焼室内で層流を作って燃焼済みガスを効率よく排気する方式)を導入し、燃費改善を図っている。さらにDKWは、それまで標準だった軽量木骨ボディが高コスト化したことを背景に、プラスティックボディの採用を検討し、1930年代末期には実際に試作車を製作している。プラスティックボディは量産化されなかったが、その過程で1939年に開発された全鋼製流線型ボディの新型車「DKW-F9」は、戦後東西両国で改良されて生産されることになる。
廉価なDKW車を主力として業績を伸ばし、1935年には、アウトウニオンはドイツ国内の乗用車市場の約半数を占めた。従業員数も増え、1936年には20000人に達した。
[編集] 戦中から戦後の展開
第二次世界大戦が始まると、アウトウニオンは木製ボディのDKWを除いて民生用の車両の生産を中断し、軍用車両の生産に集中した。ヴァンダラーはアルミや機械加工品を、ホルヒはエンジンを、アウディは組み立てラインを整えることとなった。また、ホルヒは陸軍への公式供給業者に指名されている。
1944年には、アウトウニオンの拠点であるザクセン州は大きく戦火を浴びてしまう。戦車用エンジンを生産するヴァンダラーの工場がこの時に完全壊滅し、ツヴィッカウのアウディとホルヒの工場も大きな損害を受けた。1945年3月にはドレスデン工場が壊滅し、4月頃には各地の工場は全滅に近い状態となった。そして、5月には全従業員を解放した。
大戦敗北直後、アウトウニオンは直ぐにパーツデポを開設したが、その後、ドイツは米英仏ソ4国に分割占領され、東部のザクセン州に拠点を置くアウトウニオンはソ連側に占領されたことで生産設備を失った。
その後、東ドイツに含まれたDKWの工場はMZと改められ、オートバイを生産した。ホルヒやアウディのツヴィッカウ工場はVEBザクセンリングとなり、ここからIFA F8(DKW マイスタークラッセF8とほぼ同型車)やトラバントなどが送り出されることになる。なお、1949年8月、アウトウニオンはケムニッツの会社登記簿から抹消されている。
一方、終戦直前にミュンヘンのアウトウニオンの子会社で、アウトウニオン再起の話が持ち上がっていた。そして、1947年、アウトウニオンの存続を図るべく、インゴルシュタットに本社が移転され、DKWの保守を目的としたパーツデポを開設、新生アウトウニオンGmbHを再結成する。1948年は在来モデルのパーツ生産の他に、DKWオートバイの生産を再開、翌年には復興需要に即応してDKW F800高速トラックを発表するなど、順調な回復軌道に乗った。
1950年には、前年に開設したデュッセンドルフ工場からDKWマイスタークラッセ(Meisterklasse, Typ F89)を発表した。このモデルは戦前最後のモデルである、F8のメカニズムをベースとしている。1953年にはマイスタークラッセの発展系である、DKWゾンダークラッセ(Sonderklasse, Typ F91)を発表し、1955年にはDKWゾンダークラッセ3=6(Typ F93)に発展する。1957年には、マイナーチェンジが施される(Typ F94)。更にこの年、ボディ改良と980ccエンジンを搭載した、アウトウニオン1000となった。このモデルは幾度も改良が続きながら、1965年まで生産される。
[編集] ダイムラーからフォルクスワーゲン傘下に
このころから再びオペル、ドイツフォードといった米国資本の企業が再びドイツ国内シェアを侵食し始めたため、これに危機感を覚えたダイムラー・ベンツは、1958年にアウトウニオンの株式の88%を取得し、翌年には吸収合併されて2輪部門が売却される。こうしてアウトウニオンは4輪自動車専門メーカーとなる。この間に1960年にアウトウニオン/DKW車が50万台を達成する。
1964年、フォルクスワーゲンがまず、ダイムラーベンツの持ち株の50%を取得し、翌年フォルクスワーゲンAGがアウトウニオンGmbHの所有者となる。VWは主力車「ビートル」の生産がウォルフスブルク工場だけでは需要に対応できないため、アウトウニオンのインゴルシュタット工場に委託してビートル増産を図った。その結果、1965年5月から1969年7月にかけて、インゴルシュタットだけで実に35万台近くもビートルが生産されることとなる。
同時期、アウトウニオンがDKW以来の得意技術としてきた2ストロークエンジンは、環境対応能力や高性能化の限界から4サイクルエンジンに太刀打ちできなくなり、4ストロークへの切り替えが必至となってきた。そこで技術的一新と共にイメージチェンジを図り、往年のブランドである「アウディ」をリバイバルさせることになった。
[編集] 「アウディ」復活
1965年9月のフランクフルトショーで戦後初の「アウディ」を冠するモデルとして、DKW F102の2ストロークエンジンを4ストロークに変更した「アウディ72PS」を発表する。これが今日のアウディの直接のルーツとなる。翌年にはアウディ・バリアント、アウディ80、アウディ・スーパー90が発表された。1968年にはフラッグシップのアウディ100が発表された。この頃から米国市場へ投入されていく。相前後して長い歴史のあった「DKW」ブランドの小型車はフェードアウトしていった。
1969年にフォルクスワーゲン・グループはアウトウニオンにNSU社を併合し、アウディNSUアウトウニオンAGとなる。この年、インゴルシュタット工場でのVW車の生産が中止された。
1972年、アウディ80が発表された。このモデルは今日のA4シリーズの初代に位置づけられるモデルでその証拠に80の社内呼称はB1、現行A4の社内呼称はB7である。又、同年度の全欧カー・オブ・ザ・イヤーに輝き、ヒット作となった。1974年には、オイルショックによる小型車の需要を目論んでアウディ50が発表された。このモデルはエンジンをVWゴルフやシロッコと共有している。フォルクスワーゲンとアウディのパーツ共用化は以後恒常化し、バッジエンジニアリングも行われた。
1970年代後半、アウディの技術担当責任者にフェルディナント・ピエヒが迎えられる。彼はフェルディナント・ポルシェの孫で、これまでにポルシェのレーシングマシンの開発に関わっていた。このピエヒが収まった開発部門は、後に自動車業界全体に大きな刺激となる革新的技術を続々と生み出す事になる。
その手始めとして、1980年、ジュネーブショーで自動車技術史に残るフルタイム4WDシステム「クワトロ」とその搭載車、「アウディ・クワトロ」がデビューする。80をベースにブリスターフェンダー採用など外観を改良、搭載エンジンは200のターボエンジンをベースにインタークーラーを装着し、200ps/5500rpm、29.1kgm/3500rpmという高出力を発揮した。当時の4輪駆動車は2輪駆動との切り替え式である「パートタイム式」が一般的で、使用目的ももっぱら悪路に限っての駆動力確保であった。「アウディ・クワトロ」の場合、強力なエンジンの出力を四輪に分散させることで、悪路・良路の別なく高速域まで常に確実な駆動力を得ることを狙ったのが特徴で、これを前提にセンター・デフ内蔵のフルタイム式とした事でも注目を集めた。のみならず1981年から世界ラリー選手権(WRC)に参戦して勝利を重ね、ラリー界に大きなショックを与えた。クワトロの出現以来、WRCでの勝利には四輪駆動は不可欠、という考え方が常識化した。
川崎重工と1972年にロータリーエンジンのライセンス契約を結んでいる。
1985年にはAUDI AGとなり現在に至る。以後の沿革はアウディの項を参照のこと。
[編集] アウトウニオン時代(1932~1985)の車(民生向け)
- ※ここで紹介するのは一部の例である。
- アウディ(戦前)
- AUDI Front225 - その名の通り前輪駆動車。
- AUDI 920 - AUDI Front225の後継車だが、常道的な後輪駆動に戻された。
- AUDI UW
- ホルヒ
- HORCH 830(B,BL,BK) - 3.5ℓV型8気筒エンジン搭載。ホルヒのボトムレンジを担う車種。BLはLWB仕様でBKはSWB仕様。830BLは930の登場後も存在する。
- HORCH 930(L,S,V) - 930Lと930Vはボディはそのままに830の3.5ℓエンジンを3.8ℓに拡大したもの。今日のマイナーチェンジモデルにあたる。930Sは全くの別物で他の930シリーズに共通点は見られない。主な特徴は空力抵抗に力を入れており曲線が多用されていたりヘッドライトが今日の自動車の様にフェンダー内に埋め込まれている点。
- HORCH 853(853,853A) - 直列8気筒 SOHC 5ℓエンジン(120ps)。全長×全幅×全高:5350×1830×1580で、ホイールベースが3.45m。ライバルはダイムラー・ベンツの540Kで絶対的性能こそ劣るが、造りの良さや風格では引けを取らず、価格は4シーター・カブリオレで14500RMと540Kロードスターの22000RMに比べれば破格の安さであった。Cabrioletの他にLimousineやRoadster、Sport-coupeもあった。853はスペシャリティモデルであったが、ベースである850を上回る数が生産されるヒット作となった。アウトウニオンのレーシングドライバーであるローゼンマイヤーは853 Sport-coupeに乗っていた。
- HORCH 951(A) - ホルヒのトップレンジを担うモデル。エンジンは直列8気筒SOHC。Glaser(※コーチワークを行ったドレスデンの会社の名)・LWB・Pullman・Cabrioletという3列シート車もある。ホイールベースはPullman・Limousineで3.745mで、価格がPullman・Limousineで18750RM。
- HORCH 600 - 1931年~1933年まで生産されていたモデル。6ℓV12気筒エンジン(120ps)搭載。ホイールベースは2.375m。
- HORCH 670 - 1931年~1933年まで生産されていたモデル。6ℓV12気筒エンジン(120ps)搭載。ホイールベースは3.45m。価格はCabrioletで22500RM、グローサー・メルセデスやマイバッハ・ツェッペリンに比して破格の安さであった。
- HORCH 855
- DKW(戦前)
- DKW F5
- DKW F9
- ヴァンダラー
- WANDERER W23
- WANDERER W25K
- DKW(戦後)
- DKW 3=6F91
- アウトウニオン
- AUTOUNION 1000(1000,1000SP,ユニバーサル) - 2ドアセダンやワゴンのユニバーサルもあった。戦後のヒット作となった。
- アウディ(戦後)
- AUDI 72 - 戦後初のアウディ車
- Audi Sport quattro
- AUDI 80 - 今日のA4に相当。
- AUDI 100 - 今日のA6に相当。
- NSU(合併後のAUDI NSUの時に生産していた車種)