デルバート・マン
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デルマート・マン(Delbert Mann、1920年1月30日–)は、アメリカ合衆国の映画監督。
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[編集] 生い立ち
デルバート・マーティン・マンとして、カンザス州ローレンスに生まれる。彼の父親は、スカリット・カレッジで教職に就いたため一家共々、テネシー州ナッシュビルに移住した。若いデルバートはヴァンタービルト大学(ここで妻のアン・キャロライン・ジレスピーと出会った)を卒業して、ナッシュビル・コミュニティ・プレイハウスで、生涯の友となるフレッド・コウに出会い、プロとして批評に耐えられる演劇活動を始める。
1941年から1945年まで空軍に入隊、第二次世界大戦に従軍した。彼は空軍に配属され、部隊に配属され、第8軍でパイロットとして就いた。爆撃機B24のパイロットとして35回のヨーロッパ戦線へ出撃した。戦後エール・ドラマ・スクールで学んだ後サウスカロライナ州コロンビアのタウン・シアターのマネージャー兼舞台監督になる。
1949年、彼の古い友人フレッド・コウから打診を受けてNBCテレビの演出助手となり、やがてディレクターになる。「フィリコ・プレイハウス」「グッドイヤー・テレビジョン・プレイハウス」「プロデューサーズ・ショーケース」といったテレビ初期の生放送のドラマで演出の手腕を鍛え上げた。その中には、ジュリー・ハリスとレスリー・ニールセンが共演した「十月の空」やエヴァ・マリー・セイントとE.G.マーシャルが共演した「真夜中」などの作品を生放送で放映したのだった。デルバート・マンは、オリジナル・ドラマの生放送がネットワークTV局の重要な番組であった頃の「テレビジョンの黄金世代」で最も良く知られた存在であった。
[編集] 映画『マーティ』が成功するまで
1953年にデルバートは同じ戦争の勇士だったパティ・チャイエフスキーの書き下ろした生放送用テレビドラマを演出した。「グッドイヤー・テレビジョン・プレイハウス」でのエピソードであり、メソッド俳優のロッド・スタイガーが「マーティ」という孤独な独身者を演じたのだ。
デルバート・マンといえば、映画『マーティ (映画)』が巻き起こした物凄い社会現象を想像するだろう。けれども、元はと言えば映画でもテレビ番組でもなく、伝説となったチャイエフスキーの1953年の演劇用の脚本であった。しかし、最初の頃、デルバートはテレビや映画化しても興行的な価値はないだろうと思っていた。
しかし、トムソン・ワイルダーの劇場用の作品「我等の街」はニューハンプシャーの小劇場で細々と上演された作品であった。1954年になって「プロデューサーズ・ショーケース」において、若いポール・ニューマンと歌うタレントであったフランク・シナトラの共演したTV版「我等の街」でデルバート・マンは、エミー賞の最優秀監督賞にノミネートされた。だが、皮肉にも「マーティ」のTV版は、テレビの黄金時代の頂点と思われた時代に、さまざまあった各種の賞にもほとんど認められなかった。しかし、再放送をするたびに口々に素晴らしいという評価がでてきた。
当時スーパースターであったバート・ランカスターと制作上のパートナーであったベン・ヘクトは、彼らの独立プロダクション、ヘクトーランカスター・プロ用の原作を遂にそこで見い出した。その作品はブロックバスターの時代に画面比4:3というアカデミー比の白黒の作品である。同時代の『十戒』(1956)などはシネマスコープ、シネラマやビスタヴィジョンなどのカラーのワイドスクリーンが時代を闊歩していたのにである。カラーのワイドスクリーンの映画は、家に置いてあるテレビの画面から家の外の映画館に足を向けさせるものと思われていた。そんな状況の中でこれから作ろうとする作品は、2年前にすでに公開したTV劇を下敷きに、低予算、白黒映画、プロダクションも無名、スターも出演していないのだ。
TV版「マーティ」をリメイクするにあたって、物語も脚本も良く、プロダクションも結束が堅かったが、この作品に投入する資金が無かった。予算は35万ドル以内と設定された(広告費が予算より多いのはアカデミー作品賞では初めてのケース)。ロッド・スタイガーはヘクトーランカスター・プロに契約を拘束されるのを嫌い、元の役を再演するのを断った。それで、バート・ランカスターと以前『地上より永遠に』(1953)で共演したアーネスト・ボーグナインに役が回ってきた。太めでユダヤ人であることと、以前出演した他の出演作品も論議され、ボーグナインはこの作品以前に観客にとって同情される脇役など皆無だったのだ。
この映画で成功する見込みはなかったので、バート・ランカスターはプロデューサーの肩書きをはずして公開した。そのために作品の栄誉はヘクトに持っていかれてしまった(アカデミー作品賞をもらったのもヘクトのみ)。誰もが映画『マーティ (映画)]』が成功するとは思っていなかった。たぶん、これはハリウッドでも特異なケースであったであろう。ドラマの質がいい上に予算があまりかかっていない映画なのである。
映画『マーティ』は、商業的な成功以前に批評面でも非常に高い評価を得ていた。1955年度のカンヌ国際映画祭に出品されて、米国映画史上初めてのグランプリを獲得した(フランスの慣習で製作者のみならず監督も賞を獲得した)。公開されるや300万ドル(現在の2100万ドル)の収益があり、ヘクトーランカスター・プロにとり重要なことでもあったが、低予算の『マーティ』は最も興行収益率が高い作品の1本になった。
『マーティ』は批評家の絶賛と興行的な成功で、1956年のアカデミー賞において、最も予想はずれの映画になった。デルバート・マンは1955年度のアカデミー監督賞を、パティ・チャイエフスキーはアカデミー脚色賞を獲得した。オリジナルの作者たちに加え、アーネスト・ボーグナインはアカデミー主演男優賞を獲得し、ハロルド・ヘクトはアカデミー作品賞を獲得する。デルマート・マンは、2000年にサム・メンデスが再現するまで、処女作でいきなり監督賞を獲得する、という快挙を成し遂げた。
[編集] その後
その後『旅路』(1958)もオスカー・シーズンを賑わせ、『真夜中』(1959)、『階段の上の暗闇』(1960)などのドラマの演出や『恋人よ帰れ』(1961)や『ミンクの手ざわり』(1962)で洒落たタッチのコメディにも優れた演出を見せた。しかし、その後ヒットに恵まれずに1968年にテレビ界に戻る。このテレビ界で「さすらいの航海」(1970)や『ジェーン・エア』(1971)といった日本では劇場公開された作品を発表した。その後1990年代までテレビ用映画を作り続けた。
[編集] 主な監督作品
- マーティ-Marty (1955)
- 楡の木陰の欲望 -Desire under the Elms (1958)
- 旅路 -Separate Tables (1958)
- 真夜中 -Middle of the Night (1959)
- 階段の上の暗闇 -The Dark at the Top of the Stairs (1960)
- 恋人へ帰れ -Lover Come Back (1961)
- さすらいの旅路 -David Copperfield (1969) *TV映画
- ジェーン・エア -Jane Eyre (1970)*TV映画
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