ダンカン (お笑い芸人)
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ダンカン(1959年1月3日 - )はお笑いタレント、俳優、放送作家、劇作家、映画監督。本名は飯塚実(いいづか みのる)。埼玉県入間郡毛呂山町出身。埼玉県立越生高等学校卒業。たけし軍団の一員。オフィス北野所属。血液型B型。
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[編集] 経歴・人物
高校卒業後にバイクで日本一周の旅に出たり、自主制作レコードを録音する等、時代遅れのヒッピーに倣った生活をしていた。20歳を過ぎて思い立ち立川流へ入門。元々は落語立川流の落語家(Aコース落語家コース)で立川談かん。立川志の輔の兄弟子にあたる。その後落語立川流を談志に『これからは落語ではなくてTVですよ』と相談して呆れられたもの、師匠から口利きをしてもらいビートたけし(立川錦之助という名前を談志からもらっている)の預かりになった。まだたけし軍団の概念がない頃でもあり、名前はそのまま立川談かんを名乗って活動。1984年にビートたけしの思いつきで軍団全員の名前が刷新された際に、談かんは風呂にも行かず不潔なので汚い“ふんころがし”と顔とキャラが激似の水木しげるゲゲゲの鬼太郎の“ねずみ男”を提示されて、本人が前者を選んだ。その後横山やすしに挨拶した際「何やその芸名は!」と怒鳴られ現在のダンカンに改名した。
大の阪神タイガースファンとしても知られている。自らも甲子園を目指していたと語る事があるが、実際は軟式野球部の所属であった。軍団チームでは阪神の田淵に憧れキャッチャーをやっていたが、井手らっきょがキャッチャーを希望すると技術の雲泥の差にレギュラーの座を奪われた。ちなみにたけし軍団メンバーに対しては熱血的に指導しているつもりらしいが、傍から見ればただのイジメではないかという非難の声もある。息子に「甲子園」(飯塚甲子園)と名付け、野球留学をさせている。
落語家としては下手で、落語家時代、当時の師匠でもある立川談志からは『古典落語を破壊する男』と言われた。
放送作家としての活動も長く、スポーツ紙などへの執筆活動も長年続けている。また、その類稀なキャラクターによりオフィス北野作品をはじめ俳優として重用され、様々な役でその存在感が光る。さらに、映画監督も務めるなどあらゆる方面で精力的に活動している。
[編集] ダンカンが引き起こした大きなイタズラ
バター犬太郎・その他芸人にオウム真理教の宗教服を着せ、座り込みをさせ、終日瞑想とオウムの呪文であるマントラを唱えさせた。冗談ではすまされず、すぐに周辺住民による本格的なオウム真理教進出反対運動に発展した。[要出典]
浅草キッドは地域の抗議集会に出席し、釈明を行った。また、外形的な事実を信じ、通常の土地取引であるとの認識の上で土地を売った不動産屋や、オウム進出を本当に信じた周囲の住人から家の建築を反対され、水道橋博士は、慰謝料・立ち退き料等で二重の住宅ローンを課されることとなった。
[編集] TV出演
- 1997年 『毛利元就』(NHK):吉川元経
- 1997年 『いとしの未来ちゃん』
- 1999年 『元禄繚乱』(NHK):豊松
- 2001年 『北条時宗』(NHK):日田永基
- 2001年~2006年3月 『サンデージャポン』
- 2003年~ 『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』
- 2004年~ 『ダンカンの一発やっちまえ』
- 2005年 『柳生十兵衛七番勝負』第3話(NHK):山田五郎兵衛
- 現在(不定期)~ 『のりゆきのトークDE北海道』(北海道文化放送)
[編集] ラジオ出演
- 2000年~2004年 『ガンバ・LA・ねっと』(山梨放送)
[編集] 映画出演
- 1991年『MISTY』
- 1995年『BeRLiN』
- 1996年『男たちのかいた絵』
- 1998年『生きない』
- 2000年『呪怨2』
- 2002年『ドッペルゲンガー』
- 1990年『3-4X10月』
- 1994年『みんな~やってるか!』
[編集] 監督作品
- 2005年『七人の弔』
[編集] その他
- 街 ~運命の交差点~(1997~1998・テレビゲーム)チュンソフト
- ぼくのなつやすみ(2000・テレビゲーム)ナレーション役ソニー・コンピュータエンタテインメント
- ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇(2002・テレビゲーム)ナレーション役ソニー・コンピュータエンタテインメント
- お笑いの神様(2005~2006・コミック)小学館 週刊ヤングサンデー