RKO
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RKO(Radio-Keith-Orpheum Radio Pictures Incorporeted)は、かつてのアメリカの映画会社、映画スタジオ、映画配給会社。1950年代までは、MGM、パラマウント、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザースと並んで、「ビッグ5」と呼ばれていた一大メジャー映画会社であった。
1981年にRKOのまだ存続していた子会社の一つが共同制作のためにRKOの名前を復活させ、1989年に多くのRKO映画の商標権とリメーク権を新しい所有者に売却した。現在のRKO Picturesはこの所有者の下で経営されている独立した会社である。
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[編集] 沿革
RKOは、ハリウッド映画史上、最も複雑な組織変革をたどった映画会社である。
[編集] 複雑な由来
母体になったのはミューチュアル・フィルムの配給部門といわれる(異説あり)。1919年、映画製作に興味を持ったイギリスの輸出入会社ロバートソン=コールがこれを併合し、1921年ハリウッドにスタジオを建設して映画製作業を開始した。1922年ハリー・M・バーマン、ジョセフ・P・ケネディらアメリカの映画製作者グループが買収してFBO(Film Booking Office of America、フィルム・ボックス・オフィス)と改名。フランスのパテ社などからも作品を輸入して上映していた。トーキー映画開発期には、"Photophone"という独自のシステムを導入する目的で介入してきたRCA(Radio Corporation of America)が劇場チェーンのKAO(Keith-Albee-Orpheum、キース・アルビー・オーフェリアム)とFBOを合併し、1928年、RKO(Radio-Keith-Orpheum、レイディオ・キース・オーフェリアム)が誕生した。この段階で映画スタジオ、独自の映画配給網と会社専用の映画館(合併当時全米で700館程度あった)を所有していたRKOは、スタジオ・システム成立の一翼を担った。"Radio Pictures"と後ろに続くのは、当時全米の一大ラジオ網を支配していたRCA(合併当時66%の株式を所有していた)の影響である。この会社は映画だけでなくラジオ(後にはテレビ)という、当時の主要メディアをほぼすべて支配していたのである。
[編集] 最盛期の作品群
『キング・コング』(1933年、メリアン・C・クーパー/アーネスト・シュードサック監督)、『男の敵』(1935年、ジョン・フォード監督)、『市民ケーン』(1941年、オーソン・ウェルズ監督)、『偉大なるアンバーソン家の人々』(1941年、オーソン・ウェルズ監督)、『素晴らしき哉、人生!』(1946年、フランク・キャプラ監督)などのようなハリウッド全盛期の秀作を数々と生み出した。
また、RKOは、1930年代にフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースを起用した人気ミュージカルのシリーズを製作した。その中には、『コンチネンタル/離婚協奏曲』(1934年、マーク・サンドリッチ監督)、『トップ・ハット』(1935年、マーク・サンドリッチ監督)、『有頂天時代』(1936年、マーク・サンドリッチ監督)などがある。
ジョニー・ワイズミュラー主演の『ターザン』シリーズの製作や、ウォルト・ディズニー製作の短編アニメーションや、『白雪姫』(1938年)、『ファンタジア』(1940年)などの長編アニメーションの配給も行った。また、アルフレッド・ヒッチコック監督の『断崖』(1941年)や『汚名』(1946年)もここで製作された。そしてRKOの最大のヒット作は『聖メリーの鐘』(1945年、レオ・マッケリー監督)だった。
また、1940年代、ヴァル・リュートンによる独特の雰囲気を持つ、『キャット・ピープル』、『私はゾンビと歩いた』などのホラー映画のシリーズものや、1950年代には、ニコラス・レイ監督(『夜の人々』(1949年)、『危険な場所で』(1952年))やフリッツ・ラング監督(『紅殺人事件』(1956年)、『条理ある疑いの彼方に』(1956年)のような多くのフィルム・ノワールがB級映画として同時に製作された。
[編集] 混迷に満ちたハワード・ヒューズの経営とスタジオの終焉
ただ、複雑な創立以来の大株主の入れ替わりで、オーナー交代による経営危機は脱することができず、特に第二次世界大戦中での観客動員の落ち込みはひどかった。1948年には億万長者で実業家のハワード・ヒューズが大株主として会社を買収し、数週間の間にスタジオの従業員を3分の2まで減らし、1949年の半年間スタジオの全従業員の思想信条の徹底調査を行っていたが、その間に映画スタジオが閉鎖された。また完成された映画作品も、特に女優と政治に関してはハワード・ヒューズの鶴の一声で再撮影と再編集が強制されてしまった。また、この期間に過去のRKO作品を売却している。1952年には映画スタジオを完全に閉鎖し1953年には、パラマウント判決(→スタジオ・システム)により映画館部門を売却してしまった。1954年には当時の航空機部門TWAの業績好調により、2400万ドルでRKOの株式をすべて購入して、ハリウッド映画史上初めての個人所有による映画会社とする。しかし半年後の1955年7月には突如全株式を2500万ドルでジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社の子会社であるジェネラル・テレラジオ社に売却する。
テレラジオ社は、RKOが製作した1948年以前の約700本の映画のテレビ放映権を売却して資金を調達し、破綻したスタジオの復興を試みるが、1957年1月には倒産。撮影所の不動産はルシル・ボールとデジー・アルナズの会社デジールー・プロダクションの手に渡って、完全に映画におけるこの名門スタジオは消滅する。
[編集] 主な作品
[編集] 1930年代
[編集] 1940年代
[編集] 1950年代
- 紅殺人事件
- 条理ある疑いの彼方に
- 裸者と死者
[編集] オープニングロゴ
アニメーションで回転する地球とモールス信号と雷光を発している大きな鉄塔。その周りに"A RKO Radio Pictures"の文字がかたどられている。
[編集] 外部リンク
- RKO Pictures - 現在のRKOのサイト
- The Andy Griffith Show And The REAL Mayberry1枚目にRKO撮影スタジオの全景
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