ジャン・フランチェスコ・マリピエロ
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ジャン・フランチェスコ・マリピエロ(Gian Francesco Malipiero, 1882年3月18日 - 1973年8月1日)はイタリアの作曲家・音楽学者。モンテヴェルディとヴィヴァルディの校訂者として有名。
ヴェネツィアに生まれる。祖父はオペラ作曲家のフランチェスコ・マリピエロ。家庭の困難から、絶えず音楽教育を妨げられる。作曲家マルコ・エンリコ・ボッシに対位法を学ぶことを止めてから、モンテヴェルディやフレスコバルディのような古いイタリアの音楽を手ずから筆写することによって独学を続けた。イタリア古楽とのかかわりが畢生の事業となったことからすると、その時期は重要な振り出しであったと言える。1904年にボローニャに行き、ボッシを捜し出して学習を続ける。学習期間を終えると、盲目の作曲家アントニオ・スマレイリャの助手となった。
1913年にパリでストラヴィンスキーの《春の祭典》の初演に接し、その後まもなくアルフレード・カゼッラと出逢う。この頃、ローマの聖チェチーリア音楽アカデミーに提出した4つの作品が入賞する。これには裏話があって、別々の偽名を用いて提出した5つの作品のうち4つが同時に入選したのであった。
1921年に運よく寒村アソロに落ち着いてから、1926年から1942年までモンテヴェルディ全集の校訂にとりくみ、1952年以降はヴィヴァルディの協奏曲のほとんどを校訂した。
1923年にカゼッラやガブリエーレ・ダヌンツィオに協力して、新音楽協会(Corporazione delle Nuove Musiche)を設立する。ルイージ・ピランデッロの台本によって歌劇《取り違えられた息子の物語La favola del figlio cambiato 》を作曲するまでムッソリーニとは良好な関係にあったが、この作品によってファシストから痛罵を浴びせ掛けられた。次の歌劇《カエサルGiulio Cesare 》をムッソリーニに献呈したものの、これは何の助けにもならなかった。
カゼッラは、イタリア器楽の復興に尽くした「1880年代の作曲家」の中で、現在は特にピアノ曲や弦楽四重奏曲などの器楽曲によって再評価されている。マリピエロは主にフランス印象主義音楽の影響、とりわけドビュッシーの影響を受けており、自由な形式と非伝統的な楽章構成、斬新な和声法と線的な対位法を用いて作曲を続けた。そのため、ソナタ形式やフーガに縛られることを拒否した。カゼッラほど極端から極端へと渡り歩くことはなく、イタリア的な旋律の魅力は放棄されていない。多数ある交響曲のうち、第4番はクーセヴィツキー夫人ナターリアの追悼音楽であり、第6番は弦楽合奏のためのシンフォニエッタにほかならない。
門弟にブルーノ・マデルナほか。ダッラピッコラと異なり、自ら無調や十二音技法を用いることはなかったが、学生が新たな作曲技法に挑戦することに寛容だったと言われる。