ザウバー
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参戦年度 | 1993 - |
---|---|
出走回数 | 234 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 231 |
表彰台(3位以内)回数 | 8 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1993年南アフリカGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | {{{最終戦}}} |
ザウバー (Sauber) は、スイスのヒンウィルに本拠地を置くレーシングチームである。モータースポーツが禁止されているスイスでは数少ないレーシングチームであり、1990年代のF1ではジョーダンと並んで最も成功を収めたプライベーターであった。
2006年からBMW傘下のワークスチームとなることが決まり、プライベーターとしての歴史は2005年限りでその幕を下ろした。その後、BMWは選手権へのエントリー名には「ザウバー」の文字を残し、BMWザウバーF1(BMW Sauber F1 Team)としているが、これはあくまで別のチームであるという見方もあるものの、The Official Formula 1 Websiteでの記載にある様に、2006年のエントリー上のコンストラクター名が「ザウバー・BMW」であることから、記録上は「ザウバー」が継続参戦していることとなる。(下記参照)
かつてはメルセデスと縁の深いチームであったが、1997年のエンジン供給以降2005年まではフェラーリのジュニアチーム的存在であった。
F1だけでなく、スイスF3用の車両も製作している。
目次 |
[編集] 歴史
自らがドライバーとしてレースに出場していた経験もあるペーター・ザウバー(Peter Sauber) が、1970年にマシンを製作したのが始まりである。
1982年にメルセデスエンジン搭載のグループCマシンを制作した事からメルセデスのワークスとなり、ル・マン24時間レースやスポーツカー世界選手権といったレースで、相次いで優勝を飾った。ミハエル・シューマッハ、ハインツ=ハラルト・フレンツェン、カール・ヴェンドリンガーら有能な若手ドライバーをヨッヘン・マスらベテランと組ませて育成(この若手3人は「メルセデス・ジュニアチーム」と呼ばれた)。1991年限りでスポーツカー世界選手権から撤退し、F1復帰が噂されるメルセデスと共にF1進出計画を進めた。
[編集] F1参戦
1993年の開幕戦南アフリカGPでついにF1への初参戦を果たした。エンジンはイルモア製であったが、名称は「ザウバーエンジン」として搭載した。当時メルセデスがF1復帰を正式に表明していなかったため、ワークスカラーの銀色(シルバーアロー)ではなく黒色のマシンで登場し、リアカウルに「Concept by Mercedes-Benz」の文字があるのみであった。メルセデスワークス復活の足掛かりとして資金及び技術援助を受けている周囲には受け止められたが、実際はワークス計画を中止したメルセデスがザウバーの参戦を補償した形であった。翌1994年メルセデスは正式にF1参戦を表明したが、形態はエンジン供給に止まり、ザウバーはプライベートチームとして活動していくことになった。
この年の第4戦モナコGPで、エースドライバーのカール・ヴェンドリンガーがフリー走行中にクラッシュで瀕死の重傷を負ってしまった。この事故はドライバーの頭部が剥き出し状態であった事が重症を負った原因とチームが独自に判断して、たとえエアロダイナミクスが悪くなってもドライバーの生命に関る事を最優先事項として、翌スペインGPから「サイドプロテクト」と呼ばれるドライバーの頭部をより安全に守れるようにコックピットを改造した。(このサイドプロテクトは1996年以降にレギュレーションで採用され、F1以外も全てのフォーミュラカーにルールで採用すようになった)これにより、この年にF1デビューを果たしていたチームメイトのハインツ=ハラルト・フレンツェンが急遽エースドライバーに昇格し、セカンドドライバーには「壊し屋」との異名をもつアンドレア・デ・チェザリスを起用して残りのシーズンを戦うこととなった。しかし、チームは資金力豊かなトップチームのようにコンスタントな開発が出来なかったことから成績が振るわず、メルセデスがマクラーレンと翌1995年以降のエンジン独占供給契約を結んだことで長年のパートナーシップに終止符が打たれた。この年からメインスポンサーが付く事になったが最初の「ライト・ハウス」社が指定された期日までに契約金を入金しなかったので契約不履行となり契約を解除し、スイスの時計メーカーのスウォッチ社となる。1996年からはレッドブルがメインスポンサーとなりチーム名も2004年まで「レッドブル・ザウバー」となった。
このためザウバーは、ベネトンに去られたフォードから1995年シーズンからのエンジン供給を受け、出直しを図った。しかしワークスエンジンを獲得したもののV10エンジン全盛期の時代にV8エンジンでは限界があり、このエンジンでの最高位は1995年の第12戦イタリアGPでフレンツェンが獲得した3位に止まった。(なお、現在もザウバーはこの成績を超える順位は記録していない)
ところが今度は、1996年のシーズン開幕前に、スチュワート・レーシングが翌1997年からのフォード・エンジン独占使用によるF1参戦を表明。フォード初のV10エンジンをワークス体制で供給されたが、ザウバーはまたしてもワークスエンジンを失うこととなる。このため1997年からはフェラーリの1年型落ちであるエンジンを、スポンサーであるマレーシアの石油会社ペトロナスのバッジネームにて「ペトロナスエンジン」として使用することとなった。またホンダ、マクラーレン、フェラーリと渡り歩いた後藤治がエンジン担当としてチームに入った。
以降、一説にはフェラーリのエンジン開発パーツをザウバーに供給し、実戦においてパーツの耐久テスト等をしているのではないかと噂をされた事もあったり、2002年のレギュラー・ドライバーであったフェリペ・マッサを翌2003年にはフェラーリにテスト・ドライバーとして貸し出し、2004年に再度ザウバーのレギュラー・ドライバーに復帰後もフェラーリのテストに駆り出すなど、事実上フェラーリのジュニア・チームとして生き抜くことを選んでいた。(ただし、レッドブルとスクーデリア・トロ・ロッソとの関係のように両チーム間に直接的な資本関係があったわけではなく、あくまで技術上のジュニア・チームである)しかし、2005年にはフェラーリとは異なるミシュランタイヤを装着するなど、独自路線を歩み始めていた。これはブリヂストンタイヤへの不満があった事による変更でもあった。
レッドブル、ペトロナスという安定したスポンサーを持ち、「寄らば大樹の陰」の諺の如くトップチームと親密な関係を保つザウバーの堅実な運営法は、プラーベーター生き残りの手本と評価された。成績も目立たずとも中位で安定し、2001年にはコンストラクターズ選手権4位と健闘を見せた。若手ドライバーを抜擢するペーター・ザウバーの眼力も確かで、フェリペ・マッサの他にもキミ・ライコネンを発掘。奇しくもこの2人は2007年からフェラーリでコンビを組むこととなり、若手登竜門としてのザウバーの役割を証明した。しかし、チームの発展を考えるオーナーの意向で2006年からBMWよりエンジン供給を受けると共に、同社がチームを完全買収することが発表された。
2006年、BMWワークス初年度としてのこの年、結果が出なかった時に悪印象の全てが自らに向くことをBMWが嫌ったことから、BMWザウバーを名乗ることとなり、前年買収発表時のおおかたの予想を覆し「ザウバー」の名称がF1に残ることとなった。記録上の取扱いは、新チームとしての登録として、「BMWザウバー」は「ザウバー」の記録を引き継がず、この年の開幕戦バーレーンGPがデビュー戦との扱いという見方と「ザウバー・BMW」というコンストラクター名から「ザウバー」の継続参戦としての扱いという見方の双方があるが、公式的には後者が正解である。FIAのスポーティングレギュレーション第20条によれば、コンストラクター名称の登録においては、シャシー銘柄がエンジン銘柄の前に常に位置するものとされているためである。なお、同条には選手権タイトルはシャシー製造者のみに与えられるとされている。同チームが今後タイトルを獲得した場合、タイトルは「BMW」ではなく、あくまで「ザウバー」に対してのみ与えられことになることから、現状の参戦形態が継続されるかは疑問視される。 もっとも、実質的なチームのオーナーシップが変更されていることに変わりはなく、プライベーターとしての時代には完全にピリオドが打たれている。
[編集] 関連項目
- モータースポーツ
- 後藤治 - エンジン開発責任者
- F1コンストラクターの一覧