ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
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ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(Gennady Rozhdestvensky〔〔ロシア語:Генна́дий Рожде́ственский〕, 1931年5月4日 - )はロシア人指揮者。日本での呼称は英語読みに従ったもので、ロシア語の発音はゲンナーディ・ロシヂェーストヴェンスキィが近い。
モスクワ生まれ。音楽家一家に生まれ、本名はゲンナジー・ニコライェヴィチ・アノーソフ(Gennady Nikolayevich Anosov)であったが、職業音楽家として活動するにあたって、有名な父親ニコライ・アノーソフとの混同を避けるために、母親の旧姓をもらい受けた。モスクワ音楽院で指揮を父親に、ピアノをレフ・オボーリンに師事。早くも20歳でボリショイ劇場でチャイコフスキーのバレエ音楽《くるみ割り人形》を指揮して、ただちに名声をかち得る。ソ連邦の作曲家の数々の作品を初演しただけでなく、ベンジャミン・ブリテンの歌劇《真夏の夜の夢》をロシア初演した。1969年にピアニストのヴィクトリア・ポストニコワと結婚。
1970年代後半から西側で活動する機会が増えたが、当時、名声のあるソ連の音楽家の相次ぐ亡命に神経を尖らせていたソ連当局は、ロジェストヴェンスキーのソ連脱出を警戒して、1983年にソ連文化省交響楽団を創設、その音楽監督にロジェストヴェンスキーを据えた。同楽団は、ソ連崩壊にともない自然消滅するまでの間、ロジェストヴェンスキーの指導力のもと、ショスタコーヴィチとグラズノフの交響曲全集のほか、シュニトケやオネゲル、ヴォーン=ウィリアムズの作品の録音に加えて、ブルックナーの交響曲を全ての異稿を含めて体系的に録音するという世界初のプロジェクトも実行した。
ロジェストヴェンスキーの経歴はおおよそ以下のとおりである。
- 1951-61 ボリショイ劇場管弦楽団(指揮者)
- 1961-74 モスクワ・ソ連放送交響楽団
- 1964-70 ボリショイ劇場管弦楽団(首席指揮者)
- 1974-77 ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(音楽監督)
- 1978-81 BBC交響楽団(首席指揮者)
- 1980-82 ウィーン交響楽団
- 1983-91 ソ連文化省交響楽団
- 1992- 王立ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団
このほかに、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、シカゴ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団、ロンドン交響楽団などの世界有数のオーケストラを指揮している。
ロジェストヴェンスキーは長い指揮棒を用いることで有名である。ロシア人の指揮者の中では、いわゆる爆演系の指揮者ではない。様式を的確に把握する能力によって、確固とした形式感と造形力が前面に出される一方、響きの洗練を追究することも忘れてはいない。レパートリーの幅広さでも傑出している。そのような意味で、ムラヴィンスキーの正統的な後継者と呼ぶべき位置を占めている。
ソフィヤ・グバイドゥーリナの交響曲《声……沈黙…… Stimmen... Verstummen... 》は、ロジェストヴェンスキーへの献呈作品である。