ケマル・アタテュルク
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ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk, 1881年3月12日- 1938年11月10日)は、トルコ革命の指導者、トルコ共和国の初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。日本では、彼の革命当時の呼び名であるケマル・パシャの名で言及されることも多い。
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[編集] 生い立ちと軍人時代
ケマルは、1881年にオスマン帝国マケドニア州の州都テッサロニキ(現ギリシャ領)に、税関官吏を務める父アリ・ルザと母ズベイデの子として生まれた。親によって最初につけられたムスリム名は「ムスタファ」であるが、後に、学業が成績優秀であったことからつけられたあだ名に由来する「ケマル」(「完全な」を意味する)という名を加えて、ムスタファ・ケマルと呼ばれようになる(のちに彼自身によって制定された創姓法が施行されるまでトルコ人に姓はなかった)。
幼くして軍人を志して陸軍幼年学校から士官学校に進み、1905年に陸軍大学校を卒業。士官学校在学中から専制政治を敷くアブデュルハミト2世に反感を抱いていたため、任官されると配属先のダマスカスで秘密組織「祖国と自由」を作って反体制運動に携わった。
1907年、故郷テッサロニキに転属され、この地で既に青年将校や下級官吏の間に根を張っていた反体制秘密組織統一と進歩委員会(青年トルコ党)に参加した。しかし、翌1908年に青年トルコ人革命を起こすことになる統一と進歩委員会テッサロニキ支部では既にタラート、エンヴェルらが首脳部となっていたために主流派からは外れた存在で、革命の一線に立つことはなかった。1909年の反青年トルコ人革命の反動派クーデターに際し、テッサロニキから鎮圧に派遣された軍の師団参謀として活躍したが、その後は委員会から距離を置き、軍務に専念した。
第一次世界大戦中の1915年、当時大佐であったケマルは首都イスタンブルの喉元にあたるゲリボル(ガリポリ)半島で一隊を率いてガリポリ上陸作戦を敢行したイギリス軍の撃退に活躍、救国の英雄としての名声を獲得した。この軍功により翌1916年、准将に昇進して将官の称号「パシャ」を授けられた。その後アナトリア東部戦線およびシリア戦線を転戦、少将としてアレッポでイギリス軍の北上に備えている最中に終戦を迎えた。
[編集] トルコ共和国の建国
大戦終結後、帝国は連合国に分割占領されるが、やがてアナトリアの各地で占領に反対する抵抗運動が起こった。イスタンブルにいたケマルはひそかに抵抗運動の指導者となるよう要請されて、それを決意したが、折から大戦の英雄として軍が反対運動に荷担するのを抑止することを期待したオスマン政府によって監察官としてアナトリアに派遣されることになった。
1919年5月19日、ケマルは海路アナトリア北部の港町サムスンに上陸し、政府の意向に反して反占領抵抗運動の指導者に立った。のちにトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを召集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。
抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。
この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「前進せよ。目標は地中海 ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri")」は、このときに発せられたものである。
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘したが、ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
[編集] 大統領時代
1924年、ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。
1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を逮捕、追放して、ケマル自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。
独裁的な指導力を握ったケマルは、日本の明治維新をモデルに、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもイスラムと結びつきやすいアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。経済面では世界恐慌後はソビエト連邦に範を取った計画経済を導入する。
また、ターバンやトルコ帽(フェズ)の着用禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)や、スイス民法をほとんど直訳した新民法の採用など国民の私生活の西欧化も進められ、1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
ケマルの政策は確かに独裁的であったが、その目的は私腹を肥やす事や、少しでも批判的な勢力を潰すものではなく、結果としてトルコ国民が暮らし易くなるものばかりだった。この事からケマルは「正しい独裁者」とも称される。
1938年11月10日、執務のためのイスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で急死した。激務と過度の飲酒が原因とされている。彼の飲酒は度が過ぎていたことで有名で、生前、医者に「ラク(トルコの蒸留酒)が死因でないと診断せよ」と言い残したという。
[編集] アタテュルク主義
ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュの政治姿勢は、戦間期のヨーロッパ諸国の指導者にみられる権威主義と共通する部分が多い。しかし、他国の独裁政権と比較すれば、アタテュルクとイノニュは、政変なく政権を守り通すことができたし、巧みな外交政策により第二次世界大戦に至る動乱の渦中にあって中立を押し通すことにも成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した独裁者」ケマルはその死後も現在に至るまでトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。
ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマリズム」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマリズムの信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマリズムの名のもとに多様な主義主張が語られているのが現実ではある。
彼ら「ケマリズム」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部のエリートは、「ケマリズム」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部のクーデターも政治家のケマリズムからの逸脱是正、あるいはケマリズムの擁護を名目として実行されている。
ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要なモニュメントになっている。毎年彼の命日には、アタテュルク廟ほかトルコ全土で黙祷など記念のセレモニーが行われる。
また、イスタンブルには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(略称YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。
トルコにおけるこうした徹底的なケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年クーデター以前は、徹底的な政教分離主義はケマリズムの名のもとに国家体制と不可分のものとされていたし、体制によって民族主義とイスラムの調和がはかられ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかるケースがみられるようになった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Atatürk - トルコ文化省(英語)
- トルコ共和国の大統領
- 初代:1923 - 1938
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- 先代:
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- 次代:
- イスメト・イノニュ