グループB
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グループBは、国際スポーツ法典・付則J項によって定められていた、1~8の数字によって形成されていたそれまでのレギュレーションを改正し、N、A、B、Cという四つのアルファベットに簡略化された規定のうちの一つで、1986年まで世界ラリー選手権 (WRC) のトップカテゴリーとして定められていた。実際に1982年に試験が行われ、この年は数字表記とアルファベット表記のグループが混走していた。グループBが全面施行されたのは1983年からである。
グループBカテゴリーは、グループCに次いで規則の緩いカテゴリーで、連続する12ヶ月間にベース車を200台製造するというのが必須条件だった。のちに明記された項目として、レーシングベースとなるエボリューションモデル20台をラリーカーとして認める、という文章が追加された。これは、改造規制を緩和して、特別なホモロゲーションモデルを無理に200台揃えずともよく、これによって様々なメーカーからの参加を促すための処置と推測されるが、この規定が加えられたことにより、1980年代中期の世界ラリー選手権に参戦した車の走行スピードは急激に上がることとなる。
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[編集] 歴史
[編集] 初期グループB
このカテゴリーには、当初から世界各国のメーカーがこぞって参入して来た。ラリーに4WDシステムの威力を知らしめたアウディを始め、ルノー・オペル・シュコダ・プジョー・ランチアなどが、そして日本からもニッサンとトヨタ、メーカーとしてのラリー活動にはあまり縁のないマツダも戦線に名乗りを上げることとなった。
[編集] プジョー・205ターボ16の台頭
それまでは、市販車をレギュレーションの意図に沿って改造した、ある意味純粋な車達によってタイトルが争われていた。
そんな中、前例を破るラリーウエポンが、1984年シーズンの第5戦ツール・ド・コルスの開催とともに野に放たれる。プジョーから送り出されたその車は、外見こそ205の格好をしていたが、中身は原型を留めないほどの大改装が施されていた。もともとエンジン横置きFFレイアウトである動力系統をリアミッドシップに移動、トランスアクスル部分を改造しセンターデフとして使い、センターデフとリアデフの間にビスカス・カップリングを挟み、さらにフロントデフを追加し4WD化するという機構を採用していた。205ターボ16と名づけられたこの車は、途中参戦とドライバーの不慣れ(ドライバーとしても、このような特異なレイアウトを有した車は経験がなかった)という壁に遭遇し、1984年のタイトルこそ逃すものの、翌年1985年ツール・ド・コルスからは、戦闘機という形容が正しいほどの仰々しいエアロパーツを追加し機械的にも細かい改良を受けたプジョー・205ターボ16E2が送り出され、この年アリ・ヴァタネン2勝、ティモ・サロネン5勝と圧倒的パフォーマンスを発揮し、他社もプジョーの牙城を突き崩すために躍起になって行く。
そして、掟破りの205ターボ16に対抗するには「目には目を」もって対処するより道はなかった。
[編集] マシンデザインの変化
プジョーの対抗馬として先陣を切ったのは、ランチアの手からなるデルタS4だった。勿論、ベースカーと構造的な共通項をほとんど残していない設計で、400馬力以上を搾り出すミドシップターボエンジンに4WDシステムを組み合わせるという、もはやこの頃から常套句と化したレイアウトを採っていた。この組み合わせによって、ラリーカーは当時のF1より速い加速力を持つこととなり、ラリーはサーキットのレーシングスピード並のゾーンに突入していた。
205ターボ16E2にもそういう節があるのだが、1984年頃から登場したラリーカーでは前後のデザインバランスのことなどは全く考慮されておらず、ほとんどのマシンは、なりふり構わず勝利のみを優先した形へと変化して行く。ほぼ全てのメーカーはこの潮流に逆らうことができず、ラリーフィールドには、車体長とホイールベースを32cmも切り詰めたアウディ・スポーツクワトロ、グループBカテゴリーには珍しく3リッター自然吸気V型6気筒エンジンをミドシップマウントしていたMG・メトロ6R4、フランス車らしい美観を損ねたシトロエン・BX4TCなど、一般生産車がベースとは名ばかりの、ラリー専用に開発されたレーシングカーが顔を連ねるようになった。
[編集] 過激化した競争の結末
1986年、グループBの幕が下ろされる決定的な悲劇が起こってしまう。舞台は第5戦ツール・ド・コルス。ランチアワークスのエースとしてデルタS4を駆るヘンリ・トイボネンがクラッシュし炎上、トイボネンとコ・ドライバーのセルジオ・クレストが死亡するという、最悪の結末を迎えてしまう。ランチアは前年も同じイベントでアッティリオ・ベッテガをクラッシュ事故で亡くしており、災難に二度も襲われることとなってしまった。
度重なった大クラッシュ、参加するドライバー達からの再三に渡る警告を厳粛に受け止めたFIAは1986年をもってグループBカテゴリーを閉め出すことを発表、翌年からは市販車にレース参加車両として最低限の改造を加えたグループAカテゴリーで争われることになり、同時に、将来的に企画されていた、グループBより過激なレギュレーションとなることが予想されたグループSは、当然ながら白紙撤回となった。これ以降、公式なレースフィールドにグループBが復活したことはない。
[編集] グループBの主な車種
- アウディ・クワトロ
- アウディ・スポーツクワトロ
- オペル・マンタ400
- オペル・アスコナ400
- シトロエン・BX 4TC
- シトロエン・ヴィザ ミルピステ
- シュコダ・130LR
- ダイハツ・シャレード926ターボ
- トヨタ・セリカツインカムターボ
- ニッサン・240RS
- フォード・RS200
- プジョー・205ターボ16
- ポルシェ・911SCRS
- マツダ・RX-7
- ランチア・ラリー037
- ランチア・デルタS4
- ルノー・5ターボ
- MG(オースティン)・メトロ6R4
量産の用意はあったが、ホモロゲーション取得には至らなかった車両
- トヨタ・MR2 #AW1系
- 三菱・スタリオン4WD