クロアチア紛争
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クロアチア紛争(クロアチアふんそう)は、1990年から1995年にかけてクロアチアのユーゴスラビアからの分離独立およびクロアチア人とセルビア人の民族対立をめぐる紛争である。
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[編集] 背景
[編集] 第二次世界大戦
1918年にクロアチアは、第一次世界大戦中にセルビア王国が発表した戦後のバルカン地域の新国家像として南スラブ人による連邦国家の創設と言う提案に同意。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に参加した。この王国は1929年にユーゴスラビア王国と名称を変更するが、当初からこの王国の内政問題の第一はセルビア人とクロアチア人の民族対立であった。ユーゴスラビアはセルビア王国の国王を頂、首都の所在するベオグラードの政治をセルビア人が独占しているとして不満であった。1939年には妥協策としてクロアチア人に一定の自治権を認めたクロアチア自治州が設定されたが、クロアチア人の不満は解消されず、一方でアンテ・パベリッチが主導するウスタシャは公然とクロアチア独立を掲げた。1941年に突如としてナチス・ドイツがユーゴスラビアに侵攻。ウスタシャはこれに協力して、傀儡国家クロアチア独立国を成立させた。一方でユーゴスラビア国王に忠誠を誓うセルビア人将校を中心として反ウスタシャ組織、チェトニックが組織され抵抗運動を開始した。ユーゴスラビアでの反ファシズム闘争は、クロアチア人とセルビア人の民族闘争に転化された。この戦闘の中で両民族は民族浄化、レイプ、住民の追い出しをはかり大量の死者と難民を生み出した。この出来事は1991年以降のクロアチア紛争でも再度論争の的となり、さらに同じような事件が再生産された。
[編集] チトー以降
第二次世界大戦が収束した1945年に成立した、ユーゴスラビア共産党(後にユーゴスラビア共産主義者同盟)による第二のユーゴは、戦前と同じ枠組み、すなわちセルビア、クロアチア、スロベニア、マケドニア、モンテネグロにより再スタートを切ることを期したが、この第二のユーゴの維持は戦中パルチザン闘争を指導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚とカリスマ性に拠る所が大きかった。
従ってチトーが不在になれば、このバランスが崩壊する予兆はチトーの生前から見られていたが、(クロアチアの場合は1971年のクロアチアの春)事実、1980年チトーが死去するとユーゴスラビアを構成する各共和国、自治州の間から民族的な不満が噴出し始めた。
ユーゴスラビアでは1974年の憲法で、6つの共和国と2つの自治州の間で平等な発言権を認めていたが、これに対してセルビアからはユーゴスラビアを最も多く構成するセルビア人の権利が阻害されているとして不満であった。1980年代半ばにこうした不満を受けてセルビア民族主義を掲げて台頭したのが、ソロボダン・ミロシェビッチである。一方クロアチア人は、戦前と変わらずユーゴスラビアを動かしているのが専らベオグラードのセルビア人であることが不満であり、又セルビア民族主義を掲げるミロシェビッチに反発した。これが1991年のクロアチア独立に向けた直接の引き金である。
[編集] クロアチア独立
一党独裁の地位にあったユーゴスラビア共産主義者同盟は1990年になると、複数政党制による自由選挙を認め、クロアチアでは71年のクロアチアの春で失脚したスティエパン・メシッチ、フラニョ・トゥジマンがリバイバル。大統領にトゥジマンが就任した。
以降クロアチアの動きは一方でユーゴスラビア維持の動きを見せながらも、クロアチアが提案する妥協案をセルビアが拒否すると言う事実を作り出す一方で、クロアチア国内では独立の外堀を埋めていくと言う2つの動きを見せることになる。
[編集] 反セルビア感情の勃興
この期間における、セルビアとクロアチアの最初のクラッシュは、1990年5月13日、ザグレブで行われたディナモ・ザグレブとレッドスター・ベオグラードの試合におけるサポーター間の衝突。及びユーゴスラビア警察とディナモサポーターとの衝突である。当初はサポーター間の小競り合いであったが、スタジアムの運営、ユーゴスラビア警察の統制の仕方に問題があり、徐々にユーゴスラビア警察対ディナモサポーターと言う構図に変化していった。ディナモサポーターにとってユーゴスラビア警察は連邦=セルビア人の権力の象徴であり、反セルビア感情がユーゴスラビア警察に向けらる形となった。最もクロアチアにいる警察であるから、警察の中にはかなりの数の非セルビア人が含まれていた。このクラッシュでディナモのズボニミール・ボバンが警察に暴行したとして長期出場停止処分を受けるが、ボバンに暴行を受けた警察官はムスリムであった。この事件をセルビアとクロアチアの対立の端緒として評価するべきかは意見が分かれるところである。
[編集] ユーゴスラビア維持の動き
1990年10月には、クロアチアと、経済主権を掲げてユーゴスラビアからの独立を図ろうとするスロベニアによって、新連邦案「国家連合のモデル」を発表。連邦制度を廃止し、欧州共同体(当時)のような国家連合に転換するべきであるとした。一方でセルビアはあくまでも連邦の維持に固執。ボスニア・ヘルツェゴビナとマケドニアにより折衷案が提出されたが、同意に至らなかった。
[編集] 独立路線の規定事実化
90年12月に、クロアチア共和国憲法が制定された。この憲法の中でクロアチアの自決権と国家主権を規定。公用語をセルビア・クロアチア語からクロアチア語に変更し、キリル文字の使用を禁止、ラテン文字を使用することとした。
一方で、90年後半から、クロアチアの軍事力の整備が急がれ、クロアチア警察軍が創設された。大量の武器は、ハンガリーから流出したと見られている。
1991年6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%がクロアチアの独立に賛成した。これを受けて6月25日にクロアチアはスロベニアと同日にユーゴスラビアからの独立を宣言した。
[編集] 独立紛争
クロアチアと同日に、独立を宣言したスロベニアでは十日間戦争となり、ユーゴスラビア連邦軍との武力衝突に発展したが、この名前が示す通り、戦闘は極めて短期間で終結した。一方でクロアチアでの戦闘は1995年までの長期間に渡って継続した。この差異が請じた要因は「クロアチアはセルビアと直接国境を接しており」なおかつ「クロアチア国内にはセルビアが無視できない程のセルビア人が居住していた」事による。また、1992年に始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争と次第にリンクし始め泥沼化し始めたことも一因である。
[編集] セルビア人問題
クロアチアの独立気運が高まる90年9月に、セルビア人が多数を占めるボスニア・ヘルツェゴビナ周辺部に「クライナ・セルビア人自治区」が設立された。一方で、西スラボニアでも、「スラボニア・バラーニャ・西スレム自治組織」が結成された。この地域では一時的にクロアチアとセルビアの間で武力衝突を回避するため、クロアチア警察軍を入れないと言う同意が成立していたが、91年3月2日に西スラボニアのパクラッツでクロアチア警察軍と、ユーゴスラビア連邦軍が睨み合う事態となり、3月31日には同じく西スラボニアのプリトビツァで、クロアチア警察軍とセルビア人住民との間で銃撃戦となり、死傷者が出る事態となった。クロアチア独立の直前となる5月には「クライナ・セルビア人自治区」で住民投票が行われ、90%の圧倒的多数で独立反対、セルビアへの編入を支持した。
6月25日の以降、クロアチアで散発した戦闘は、クロアチア警察軍とクロアチア国内に残留したセルビア人住民の間で行われたが、9月22日にユーゴスラビア連邦軍がザグレブを襲撃するに及び、クロアチアとセルビアの正規軍同士の戦闘に発展。紛争の本格化が始まった。特にクロアチア人とセルビア人が混住し、尚且つ連邦軍の侵入が容易であったスラボニアでは戦闘が過激であった。これらの地域では元々隣同士で住んできた住民が互いに銃を取り合う事態となった。中でもドナウ川を挟んでヴォイヴォディナと接するスラボニアのヴコヴァルでは87日間に渡って市街戦が展開され双方で3,000人近い死者を出した。(en:Battle of Vukovar、これを映画化したのが「ブコバルに手紙は届かない」である。)
一方12月にドイツがクロアチアの承認を行うと、これに反発したセルビア人住民の二つの自治組織「クライナ・セルビア人自治区」と「スラボニア・バラーニャ・西スレム自治組織」は連合して「クライナ・セルビア人共和国」の設立を宣言した。クライナ・セルビア人共和国はクロアチア国内の1/3の面積を占めており、これを認めることはクロアチアにとって難しい選択であった。
1992年2月に国際連合の安全保障理事会はクロアチアへの平和維持軍(UNPROFOR)の派兵を決定するが、この平和維持軍の派兵では、互いに民族主権を主張しあう民族問題の最終的な解決には至らず、以降もクロアチアとセルビアの間で戦闘が散発した。
[編集] 「嵐作戦」
この状況を最終的に「解決」したのが、クロアチアによる「嵐作戦」であった。1995年になるとクロアチアは、アメリカ合衆国、ロシア、欧州連合、国連が提示するセルビア人勢力に一定の自治権を認める和平案に対して色気を見せ、時間を稼ぐ一方で、セルビア支配地域に展開する国連平和維持軍の活動期限切れに伴い早期の撤退を強く促していた。
平和維持軍の活動は規模を縮小することで同意されたが、その直後の5月先ず、クロアチア軍は西スラボニアを急襲。セルビア人の追い出しにかかった。続く8月3日から始まった「嵐作戦」ではクライナ・セルビア人共和国の首都クニンを目指して侵攻。わずか3日間の戦闘でクニンを占領した。この時の死者は約150人。主にセルビアに流出したセルビア人難民は15-20万人と見積もられている。この作戦を指揮したクロアチア軍将軍アンテ・ゴドビナはクロアチアの英雄として祭り上げられたが、一方で大量虐殺と大量の難民を生み出した事により旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から訴追された。ゴトビナは2005年12月にスペインのカナリア諸島で拘束され、ハーグに移送されたが、これに対しては「最小限の人的被害で、クロアチア国内のセルビア人問題を解決させたものである」としてクロアチア国内からの反発は大きい。
西スラボニアとクライナの喪失により、クロアチア国内のセルビア人は圧倒的な少数に転落した。セルビア共和国と国境を接している東スラボニアには未だセルビア人勢力が残留していたが、1995年11月11日に、同所のセルビア人勢力が東スラボニアを放棄することでクロアチアとの合意が成立した。
[編集] 紛争後
[編集] 人口変化
クロアチア紛争は、クロアチアの人口と民族分布に大きな変化をもたらした。
クロアチアの人口は1992年から1995年にかけて約475万人から約440万人に減少した。2003年までは440万人の水準で変移しており、戦前の人口が回復していないことが分かる。
また、ユーゴスラビア最後の国勢調査となる1991年と、クロアチアで最初の国勢調査となる2001年のデータを比較すると、1991年に全体の78.1%であったクロアチア人の比率は、2001年には89,63%まで増加。一方で、セルビア人の比率は12.2%から4,54%まで減少した。
即ち、戦前後の人口減少、約35万人分はセルビア人の減少分、約8%におおよそ相当していることが読み取れる。これはクロアチア国外に逃れたセルビア人難民の帰還に対して、クロアチア政府が積極的ではないことを提示している。
[編集] 経済
2003年には1990年の国内総生産の水準を達しており、経済的指標は改善の方向へ向かっていることを指し示している。又、2005年時点の一人あたりの国内総生産は12,364ドルと極めて高い数値を示している。
クロアチアのアドリア海沿岸にあたるダルマチアは観光業が主な産業のひとつであるが、その中でも世界遺産に登録されているドゥブロヴニクは紛争の影響から危機遺産に指定されたが、1998年に除外されている。
[編集] 関連項目
- ユーゴスラビア紛争 - スロベニア紛争・クロアチア紛争・ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争・コソボ紛争・マケドニア紛争
- ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
- en:United Nations Protection Force
- en:Demographics of Croatia
- en:Economy of Croatia
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